正法眼蔵随聞記 / 巻五
示して云く、衣食の事は、兼てより思ひあてがふことなかれ、若し失食絕烟せば、其の時に臨で乞食せん、その人に用事いはんなど思ひ設けたるも、卽ち物を貯る邪命食にて有るなり、衲子は雲の如く、定れる住所もなく、水の如くに流れゆきて、よる處もなきをこそ僧とは云ふなり、縱ひ衣鉢の外に一物も持たずとも、一人の檀那をも賴み、一類の親族をも賴むは、卽ち自他ともに縛住せられて、不淨食にてあるなり、かくのごとく不淨食等を以て、やしなひもちたる身心にて、諸佛清淨の大法を悟らんと思ふとも、とても契ふまじきなり、
新字:示して云く、衣食の事は、兼てより思ひあてがふことなかれ、若し失食絶烟せば、其の時に臨で乞食せん、その人に用事いはんなど思ひ設けたるも、即ち物を貯る邪命食にて有るなり、衲子は雲の如く、定れる住所もなく、水の如くに流れゆきて、よる処もなきをこそ僧とは云ふなり、縦ひ衣鉢の外に一物も持たずとも、一人の檀那をも頼み、一類の親族をも頼むは、即ち自他ともに縛住せられて、不浄食にてあるなり、かくのごとく不浄食等を以て、やしなひもちたる身心にて、諸仏清浄の大法を悟らんと思ふとも、とても契ふまじきなり、
書き下し
示して云く、衣食の事は、兼てより思ひあてがふことなかれ、若し失食絶烟せば、其の時に臨で乞食せん、その人に用事いはんなど思ひ設けたるも、即ち物を貯る邪命食にて有るなり、衲子は雲の如く、定れる住所もなく、水の如くに流れゆきて、よる処もなきをこそ僧とは云ふなり、縦ひ衣鉢の外に一物も持たずとも、一人の檀那をも頼み、一類の親族をも頼むは、即ち自他ともに縛住せられて、不浄食にてあるなり、かくのごとく不浄食等を以て、やしなひもちたる身心にて、諸仏清浄の大法を悟らんと思ふとも、とても契ふまじきなり、
現代語訳
示して言われた。衣食のことは、前もって当てを付けて思いはからってはならない。もし食が絶え、炊く煙が絶えたなら、その時に臨んで乞食しよう、あの人に用向きを言おうなどと思い設けておくのも、そのまま物を貯える邪命食である。雲水は雲のように定まった住所もなく、水のように流れゆき、寄る処もないのをこそ僧と言うのである。たとえ衣と鉢のほかに一物も持たなくても、一人の檀那を頼み、一類の親族を頼むのは、そのまま自分も相手も縛りとめられて、不浄の食である。このような不浄食で養い持っている身心で、諸仏の清浄の大法を悟ろうと思っても、とうてい叶うはずがない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、学道の人衣食を貪ることなかれ、人々皆食分あり、命分あり非分の命食を求るとも得べからず、況や学仏道の人にはおのづから施主の供養あり、常乞食たゆべからず、亦常住物もこれあり、私の営みにあらず、果蔬と乞食と信心施との三種の食は、皆な是れ清浄食なり、其の余の田商士工の四種の食は、皆不浄の邪命食なり、出家人の食分にあらず、
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『正法眼蔵随聞記』巻一示して云く、学道の人、衣糧を煩ふこと莫れ、只仏制を守て、世事を営むこと莫れ、仏の言く、衣服に糞掃衣あり、食に常乞食あり、いづれの世にか此の二事の尽ること有ん、無常迅速なるを忘れて、徒らに世事に煩ふこと莫れ、露命の且く存せるあひだ、仏道を思て余事をことゝすること莫れ、
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『正法眼蔵随聞記』巻三僧の云く、唐土の寺院には定まりて僧祇物あり、常住物等ありて、置れたれは、僧の為に行道の資縁となりて、其の煩ひなし、此の国は其の義なければ、一向捨棄せられては、中中行道の違乱とやならん、かくの如くの衣食資縁を思ひあてゝあらばよしと覚ゆ、いかん、示して云く、然あらば、中中唐土よりは、此の国の人は、無理に僧を供養し、非分に人に物を与ふることあるなり、先つ人は知らず、我れは此の事を行じて道理を得たるなり、一切一物も持たす、思ひあてがふことも無ふして十余年過き了りぬ、一分も財を貯へんと思ふこそ大事なれ、僅の命をいくるほどのことは、いかにと思ひ貯へざれども、天然としてあるなり、人皆な生分あり天地是れを授く、我れ走り求めざれども必ず有なり、況や仏子は如来遺囑の福分あり、不求自得なり、只一向にすてゝ道を行せば、天然にこれあるべし、是れ現證なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二一夜示して云く、大宋の禅院に、麦米等をそろへて、悪きをさけ、善きをとりて、飯等にすることあり、是れを或る禅師の云く、直饒ひ我が頭をうち破ること七分にすとも、米をそろふることなかれと、頌につくり戒めたり、此のこゝろは、僧は斎食等をとゝのへて食することなかれ、只有るにしたがひて、よければよくて食し、悪きをもきらはずして食すへきなり、只檀那の信施清浄なる常住食を以て、餓を除き命をさゝへて行道するばかりなり、味ひを以て善悪を択ふことなかれと謂ふなり、今ま我が会下の徒衆も此の心あるべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻六亦衣鉢等は只有るべき僧体のかざりなればなり、実の仏道行者はそれにもよらず、より来らば有るに任すべし、あながちに求ることなかれ、有ぬべきを持たしとも思ふべからず、病も治しつべきをわざと死せんと思ひて、治せざるも外道の見なり、仏道の為には命を惜むことなかれ、亦惜まざることなかれ、より来らば灸治一所煎薬一種なんど用ゐん事は、行道の障りともならじ、行道をさしおきて、病を治するをさきとして、後に修行せんと思ふは非なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一有人問て云く、名利の二道は捨離し難しと云へども、行道の大なる礙りなれば、捨てずんばあるへからず、故へに是れを拾つ、衣糧の二事は小縁なりと云へとも、行者の大事なり、糞掃衣常乞食は是れ上根の所行、亦是西天の風流なり、神丹の叢林には常住物等あり、故に其煩ひ無し、我か国の寺院には常住物なし、乞食の儀も即ち絶て伝はらず、下根不堪の身いかゞせん、然あらば予が如きは檀信の信施を貪らんとするも、虚受の罪随ひ来る、田商士工を営むは是れ邪命食なり、只天運に任せんとすれば果報亦貧道なり、飢寒来らん時是を愁ひとして行道を擬へつべし、