正法眼蔵随聞記 / 巻六
亦衣鉢等は只有るべき僧體のかざりなればなり、實の佛道行者はそれにもよらず、より來らば有るに任すべし、あながちに求ることなかれ、有ぬべきを持たしとも思ふべからず、病も治しつべきをわざと死せんと思ひて、治せざるも外道の見なり、佛道の爲には命を惜むことなかれ、亦惜まざることなかれ、より來らば灸治一所煎薬一種なんど用ゐん事は、行道の障りともならじ、行道をさしおきて、病を治するをさきとして、後に修行せんと思ふは非なり、
新字:亦衣鉢等は只有るべき僧体のかざりなればなり、実の仏道行者はそれにもよらず、より来らば有るに任すべし、あながちに求ることなかれ、有ぬべきを持たしとも思ふべからず、病も治しつべきをわざと死せんと思ひて、治せざるも外道の見なり、仏道の為には命を惜むことなかれ、亦惜まざることなかれ、より来らば灸治一所煎薬一種なんど用ゐん事は、行道の障りともならじ、行道をさしおきて、病を治するをさきとして、後に修行せんと思ふは非なり、
書き下し
亦衣鉢等は只有るべき僧体のかざりなればなり、実の仏道行者はそれにもよらず、より来らば有るに任すべし、あながちに求ることなかれ、有ぬべきを持たしとも思ふべからず、病も治しつべきをわざと死せんと思ひて、治せざるも外道の見なり、仏道の為には命を惜むことなかれ、亦惜まざることなかれ、より来らば灸治一所煎薬一種なんど用ゐん事は、行道の障りともならじ、行道をさしおきて、病を治するをさきとして、後に修行せんと思ふは非なり、
現代語訳
また衣鉢などは、ただあるべき僧の体の飾りであるからにすぎない。真実の仏道の行者はそれにもよらない。向こうから来るならば、あるに任せるべきである。しいて求めてはならない。あるはずのものを持つまいとも思ってはならない。病も治せるはずなのに、わざと死のうと思って治さないのも外道の見方である。仏道のためには命を惜しんではならない。また惜しまないでもいてはならない。向こうから来るならば、灸を一か所、煎じ薬を一種など用いることは、行道の障りにもならないだろう。行道をさしおいて、病を治すことを先にして、後に修行しようと思うのは非である。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻二因に問て云く、学人若し自己これ仏法なり、外に向て求むべからずとききて、深く此の言を信じて、向来の修行参学を放下して、本性に任せて善悪の業をなして、一期を過さん、此の見解いかん、示して云く、此の見解、言と理と相違せり、外に向て求むべからずと云て、行を捨て学を放下せば、此の放下の行を以て所求ありときこへたり、これ覓めざるにはあらず、只行学もとより仏法なりと證して、無所求にして、世事悪業等は我が心になしたくともなさず、学道修行の懶うきをもいとひかへりみず、此行を以て打成一片に修して、道成するも、果を得るも、我が心より求ることなふして行ずるをこそ、外に向て覓むることなかれと云ふ道理にはかなふべけれ、
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『正法眼蔵随聞記』巻一答て云く、但夫れ衲子の行履、仏祖の家風を学ぶべし、三国ことなりといへども、真実学道の者いまだ此の如きの事あらず、只心を世事に執着すること莫れ、一向に道を学すべきなり、仏の言く、衣鉢の外は寸分も貯へざれ、乞食の余分は飢たる衆生に施せ、設ひ受け来るとも寸分貯ふべからず、況や馳走あらんや、外典に云く、朝に道を聞て夕べに死すとも可なりと、設ひ飢に死に寒い死すとも、一日一時なりとも仏教に随ふべし、万劫千生幾回か生じ幾度か死せん、皆な是れ世縁妄執の故へなり、今生一度仏制に随て餓死せん、是れ永劫の安業なるべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻一示して云く、学道の人、衣糧を煩ふこと莫れ、只仏制を守て、世事を営むこと莫れ、仏の言く、衣服に糞掃衣あり、食に常乞食あり、いづれの世にか此の二事の尽ること有ん、無常迅速なるを忘れて、徒らに世事に煩ふこと莫れ、露命の且く存せるあひだ、仏道を思て余事をことゝすること莫れ、
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、衣食の事は、兼てより思ひあてがふことなかれ、若し失食絶烟せば、其の時に臨で乞食せん、その人に用事いはんなど思ひ設けたるも、即ち物を貯る邪命食にて有るなり、衲子は雲の如く、定れる住所もなく、水の如くに流れゆきて、よる処もなきをこそ僧とは云ふなり、縦ひ衣鉢の外に一物も持たずとも、一人の檀那をも頼み、一類の親族をも頼むは、即ち自他ともに縛住せられて、不浄食にてあるなり、かくのごとく不浄食等を以て、やしなひもちたる身心にて、諸仏清浄の大法を悟らんと思ふとも、とても契ふまじきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻三僧の云く、唐土の寺院には定まりて僧祇物あり、常住物等ありて、置れたれは、僧の為に行道の資縁となりて、其の煩ひなし、此の国は其の義なければ、一向捨棄せられては、中中行道の違乱とやならん、かくの如くの衣食資縁を思ひあてゝあらばよしと覚ゆ、いかん、示して云く、然あらば、中中唐土よりは、此の国の人は、無理に僧を供養し、非分に人に物を与ふることあるなり、先つ人は知らず、我れは此の事を行じて道理を得たるなり、一切一物も持たす、思ひあてがふことも無ふして十余年過き了りぬ、一分も財を貯へんと思ふこそ大事なれ、僅の命をいくるほどのことは、いかにと思ひ貯へざれども、天然としてあるなり、人皆な生分あり天地是れを授く、我れ走り求めざれども必ず有なり、況や仏子は如来遺囑の福分あり、不求自得なり、只一向にすてゝ道を行せば、天然にこれあるべし、是れ現證なり、