正法眼蔵随聞記 / 巻二
因に問て云く、學人若し自己これ佛法なり、外に向て求むべからずとききて、深く此の言を信じて、向來の修行參學を放下して、本性に任せて善惡の業をなして、一期を過さん、此の見解いかん、示して云く、此の見解、言と理と相違せり、外に向て求むべからずと云て、行を捨て學を放下せば、此の放下の行を以て所求ありときこへたり、これ覓めざるにはあらず、只行學もとより佛法なりと證して、無所求にして、世事惡業等は我が心になしたくともなさず、學道修行の懶うきをもいとひかへりみず、此行を以て打成一片に修して、道成するも、果を得るも、我が心より求ることなふして行ずるをこそ、外に向て覓むることなかれと云ふ道理にはかなふべけれ、
新字:因に問て云く、学人若し自己これ仏法なり、外に向て求むべからずとききて、深く此の言を信じて、向来の修行参学を放下して、本性に任せて善悪の業をなして、一期を過さん、此の見解いかん、示して云く、此の見解、言と理と相違せり、外に向て求むべからずと云て、行を捨て学を放下せば、此の放下の行を以て所求ありときこへたり、これ覓めざるにはあらず、只行学もとより仏法なりと證して、無所求にして、世事悪業等は我が心になしたくともなさず、学道修行の懶うきをもいとひかへりみず、此行を以て打成一片に修して、道成するも、果を得るも、我が心より求ることなふして行ずるをこそ、外に向て覓むることなかれと云ふ道理にはかなふべけれ、
書き下し
因に問て云く、学人若し自己これ仏法なり、外に向て求むべからずとききて、深く此の言を信じて、向来の修行参学を放下して、本性に任せて善悪の業をなして、一期を過さん、此の見解いかん、示して云く、此の見解、言と理と相違せり、外に向て求むべからずと云て、行を捨て学を放下せば、此の放下の行を以て所求ありときこへたり、これ覓めざるにはあらず、只行学もとより仏法なりと證して、無所求にして、世事悪業等は我が心になしたくともなさず、学道修行の懶うきをもいとひかへりみず、此行を以て打成一片に修して、道成するも、果を得るも、我が心より求ることなふして行ずるをこそ、外に向て覓むることなかれと云ふ道理にはかなふべけれ、
現代語訳
ついでに問うて言った。学人がもし、自己がそのまま仏法であって、外に向かって求めてはならないと聞いて、深くこの言葉を信じ、これまでの修行や参学を放り捨てて、本来の性に任せて善悪の業をなして一生を過ごすとすれば、この見解はいかがでしょうか。示して言われた。この見解は、言葉と理が食い違っている。外に向かって求めてはならないと言って、行を捨て学を放り捨てるならば、この放り捨てるという行によって求めるところがあると聞こえる。これは求めていないのではない。ただ行と学がもとより仏法であると証して、求めるところなくして、世俗の事や悪しき業などは、自分の心がしたくとも行わず、学道修行の物憂さをも厭わず顧みず、この行をもって一つに打ち成して修め、道が成るのも果を得るのも、自分の心から求めることなく行ずるのをこそ、外に向かって求めてはならないという道理にはかなうはずである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、学道の人は、吾我の為に仏法を学することなかれ、只仏法の為に仏法を学すべきなり、其の故実は、我が身心を一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり、其の後は一切の是非管することなく、我か心を存することなく、なし難く忍び難きことなりとも、仏法の為につかはれて、しひて此れをなすべし、我が心に强てなしたきことなりとも、仏法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり、穴賢、仏道修行の功を以て、かはりに善果を得んと思ふことなかれ、只一度仏道に廻向しつる上は、再ひ自己をかへりみず、仏法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存することなかれ、先證皆かくの如し、心にねがひ求ることなければ即ち大安楽なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻三亦云く、今ま仏祖の道を行せんと思はゞ、所期も無く、所求も無く、所得も無ふして無利に先聖の道を行じ、祖々の行履を行ずべきなり、所求を断じ、仏果を望むべからざればとて、修行を止め、本の悪行に住まらば、却つて是れ本の所求にとゞまり、本の窠臼に堕するなり、全く一分の所期を存ぜずして、只人天の福分とならんとて、僧の威儀を守り、済度利生の行履を思ひ、衆善をこのみ修して、本の悪をすてゝ、今の善にとゝこはらずして、一期行じもてゆかば、是を古人も打破漆桶底と云ふなり、仏祖の行履と云は此の如くなり、一日僧来て学道の用心を問ふ、
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『正法眼蔵随聞記』巻六亦衣鉢等は只有るべき僧体のかざりなればなり、実の仏道行者はそれにもよらず、より来らば有るに任すべし、あながちに求ることなかれ、有ぬべきを持たしとも思ふべからず、病も治しつべきをわざと死せんと思ひて、治せざるも外道の見なり、仏道の為には命を惜むことなかれ、亦惜まざることなかれ、より来らば灸治一所煎薬一種なんど用ゐん事は、行道の障りともならじ、行道をさしおきて、病を治するをさきとして、後に修行せんと思ふは非なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一問て云く、破戒にして虚く人天の供養を受け、無道心にして徒に如来の福分を費やさんより、在家人に随ふて、在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんこと如何ん、答て云く、誰か云ひし、破戒無道心なれと、只强て道心を発し、仏法を行ずべきなり、いかに況や持戒破戒を論せす、初心後心を分かたず、斉しく如来の福分を与ふとは見れたれども、破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見れず、
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『正法眼蔵随聞記』巻二予後に此の理を案ずるに、語録公案等を見て古人の行履をも知り、あるひは迷者のために説き聴かしめん、皆な是れ自行化他のために畢竟じて無用なり、只管打坐して大事をあきらめなば、後には一字を知らずとも、他に開示せんに用ひつくすべからず、故に彼の僧畢竟してなにの用ぞとは云ひける、是れ真実の道理なりと思ひて、其の後語録等を見ることをやめて、一向に打坐して大事を明らめ得たり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五此等まではいまた百尺の竿頭を離れずとりつきたるが如し、只身心を仏法になげすてゝ、更に悟道得法までをも望む事なく修行するを以て、是を不汚染の行人とは云なり、有仏の処にもとゞまることをえず、無仏の処をも急に走過すと云ふは此の心ろなり、