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正法眼蔵随聞記 / 巻三

僧の云く、唐土の寺院には定まりて僧祇物あり、常住物等ありて、置れたれは、僧の爲に行道の資緣となりて、其の煩ひなし、此の國は其の義なければ、一向捨棄せられては、中中行道の違亂とやならん、かくの如くの衣食資緣を思ひあてゝあらばよしと覺ゆ、いかん、示して云く、然あらば、中中唐土よりは、此の國の人は、無理に僧を供養し、非分に人に物を與ふることあるなり、先つ人は知らず、我れは此の事を行じて道理を得たるなり、一切一物も持たす、思ひあてがふことも無ふして十餘年過き了りぬ、一分も財を貯へんと思ふこそ大事なれ、僅の命をいくるほどのことは、いかにと思ひ貯へざれども、天然としてあるなり、人皆な生分あり天地是れを授く、我れ走り求めざれども必ず有なり、況や佛子は如來遺囑の福分あり、不求自得なり、只一向にすてゝ道を行せば、天然にこれあるべし、是れ現證なり、

新字:僧の云く、唐土の寺院には定まりて僧祇物あり、常住物等ありて、置れたれは、僧の為に行道の資縁となりて、其の煩ひなし、此の国は其の義なければ、一向捨棄せられては、中中行道の違乱とやならん、かくの如くの衣食資縁を思ひあてゝあらばよしと覚ゆ、いかん、示して云く、然あらば、中中唐土よりは、此の国の人は、無理に僧を供養し、非分に人に物を与ふることあるなり、先つ人は知らず、我れは此の事を行じて道理を得たるなり、一切一物も持たす、思ひあてがふことも無ふして十余年過き了りぬ、一分も財を貯へんと思ふこそ大事なれ、僅の命をいくるほどのことは、いかにと思ひ貯へざれども、天然としてあるなり、人皆な生分あり天地是れを授く、我れ走り求めざれども必ず有なり、況や仏子は如来遺囑の福分あり、不求自得なり、只一向にすてゝ道を行せば、天然にこれあるべし、是れ現證なり、

書き下し

僧の云く、唐土の寺院には定まりて僧祇物あり、常住物等ありて、置れたれは、僧の為に行道の資縁となりて、其の煩ひなし、此の国は其の義なければ、一向捨棄せられては、中中行道の違乱とやならん、かくの如くの衣食資縁を思ひあてゝあらばよしと覚ゆ、いかん、示して云く、然あらば、中中唐土よりは、此の国の人は、無理に僧を供養し、非分に人に物を与ふることあるなり、先つ人は知らず、我れは此の事を行じて道理を得たるなり、一切一物も持たす、思ひあてがふことも無ふして十余年過き了りぬ、一分も財を貯へんと思ふこそ大事なれ、僅の命をいくるほどのことは、いかにと思ひ貯へざれども、天然としてあるなり、人皆な生分あり天地是れを授く、我れ走り求めざれども必ず有なり、況や仏子は如来遺囑の福分あり、不求自得なり、只一向にすてゝ道を行せば、天然にこれあるべし、是れ現證なり、

現代語訳

僧が言った。唐土の寺院には定まって僧祇物があり、常住物などが置かれているので、僧のためには道を行ずる資となって、その煩いがありません。この国にはその仕組みがないので、一向に捨て去られては、かえって道を行ずる妨げとなりはしないでしょうか。このような衣食の資を思い当ててあればよいと思われます。いかがですか。示して言われた。そうであるなら、かえって唐土よりも、この国の人は無理に僧を供養し、分に過ぎて人に物を与えることがあるのである。まず人は知らず、わたしはこの事を実際に行って道理を得たのである。いっさい一物も持たず、当てにすることもなく十余年が過ぎてしまった。一分でも財を貯えようと思うことこそ大事である。わずかな命を生かすほどのことは、どうしようと思って貯えなくとも、自然にあるのである。人はみな生まれつきの分があり、天地がこれを授ける。走り求めなくとも必ずあるのである。まして仏弟子には如来が遺し嘱された福分がある。求めずして自ずと得るのである。ただ一向に捨てて道を行ずるなら、自然にこれはあるはずである。これが目の前の証しである。

解説

制度がないから無理だという反論に、自分の十余年で答える。財を貯えようと思うこと自体が大事すなわち一大事だと言い、そこに心が向いた時点で妨げになるという見方である。日本のほうがかえって供養が過ぎるという観察も具体的で、制度の有無より人の心のほうを問題にしている。

この章句が説くこと

常住物任運福分現証衣食

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