正法眼蔵随聞記 / 巻六
病を治せんと營むほどに、除かずして增氣し、苦痛いよいよせめば、少しも痛のかるかりし時に行道せんと思ふべし、强き痛みを受ては、尙ほ重くならざるさきにと思ふべし、重く成ては死せざるさきにと思ふべきなり、病を治するには、減ずるもあり、增するもあり、亦治せざれども減じ、治するに增するもあり、これを能々思ひ分くべきなり、
新字:病を治せんと営むほどに、除かずして增気し、苦痛いよいよせめば、少しも痛のかるかりし時に行道せんと思ふべし、强き痛みを受ては、尚ほ重くならざるさきにと思ふべし、重く成ては死せざるさきにと思ふべきなり、病を治するには、減ずるもあり、增するもあり、亦治せざれども減じ、治するに增するもあり、これを能々思ひ分くべきなり、
書き下し
病を治せんと営むほどに、除かずして增気し、苦痛いよいよせめば、少しも痛のかるかりし時に行道せんと思ふべし、强き痛みを受ては、尚ほ重くならざるさきにと思ふべし、重く成ては死せざるさきにと思ふべきなり、病を治するには、減ずるもあり、增するもあり、亦治せざれども減じ、治するに增するもあり、これを能々思ひ分くべきなり、
現代語訳
病を治そうと営むうちに、除かれずに悪化し、苦痛がいよいよ責めるならば、少しでも痛みの軽かった時に行道すべきであった、と思うべきである。強い痛みを受けては、なお重くならないうちに、と思うべきである。重くなっては、死なないうちに、と思うべきである。病を治すには、減じることもあり、増すこともあり、また治さなくても減じ、治すのに増すものもある。これをよくよく思い分けるべきである。
解説
痛みが一段重くなるたびに、一つ前の段が惜しくなるという構造を三度くり返して見せる。今がいつも、後から振り返れば最も軽い時である、ということになる。治療の効き方は思うようにならないと並べて、体の見通しに賭けることの当てにならなさを示している。
この章句が説くこと
病今光陰行道無常治
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