正法眼蔵随聞記 / 巻二
況や年長大なる人、半ばに過ぬる人は、餘年幾く計りなれば學道ゆるくすへきや、此の道理も猶のびたる事なり、眞宗には今日今時こそ、かくのごとく世間の事をも佛道の事をも思へ、今夜明日よりいかなる重病をも受て、東西を辨へぬ重苦の身となり、亦いかなる鬼神の怨害をもうけて頓死をもし、いかなる賊難にもあひ怨敵も出來て、殺害奪命せらるゝこともやあらん、實に不定なり、然あれば是れほどにあだなる世に、極て不定なる死期をいつまで命ちながらふべきとて、種々の活計を案じ、剩さへ他人のために惡をたくみに思ふて、いたづらに時光を過すこと、極めておろそかなる事なり、
新字:況や年長大なる人、半ばに過ぬる人は、余年幾く計りなれば学道ゆるくすへきや、此の道理も猶のびたる事なり、真宗には今日今時こそ、かくのごとく世間の事をも仏道の事をも思へ、今夜明日よりいかなる重病をも受て、東西を弁へぬ重苦の身となり、亦いかなる鬼神の怨害をもうけて頓死をもし、いかなる賊難にもあひ怨敵も出来て、殺害奪命せらるゝこともやあらん、実に不定なり、然あれば是れほどにあだなる世に、極て不定なる死期をいつまで命ちながらふべきとて、種々の活計を案じ、剰さへ他人のために悪をたくみに思ふて、いたづらに時光を過すこと、極めておろそかなる事なり、
書き下し
況や年長大なる人、半ばに過ぬる人は、余年幾く計りなれば学道ゆるくすへきや、此の道理も猶のびたる事なり、真宗には今日今時こそ、かくのごとく世間の事をも仏道の事をも思へ、今夜明日よりいかなる重病をも受て、東西を弁へぬ重苦の身となり、亦いかなる鬼神の怨害をもうけて頓死をもし、いかなる賊難にもあひ怨敵も出来て、殺害奪命せらるゝこともやあらん、実に不定なり、然あれば是れほどにあだなる世に、極て不定なる死期をいつまで命ちながらふべきとて、種々の活計を案じ、剰さへ他人のために悪をたくみに思ふて、いたづらに時光を過すこと、極めておろそかなる事なり、
現代語訳
まして年長けた人、半ばを過ぎた人は、余生がいくばくもないのだから、学道を緩やかにしてよいだろうか。この道理もなお悠長なことである。真宗においては、今日この時こそ、このように世間の事をも仏道の事をも思え。今夜明日から、いかなる重病をも受けて、東西も弁えぬ重い苦しみの身となり、またいかなる鬼神の害をも受けて頓死し、いかなる賊難にも遭い、怨敵も出てきて殺害され命を奪われることもあるかもしれない。まことに定まらない。であるから、これほどはかない世に、きわめて定まらない死の時期を、いつまで命を長らえられるかと思って、種々の暮らしの手立てを考え、あまつさえ他人のために悪をたくらむことを思って、いたずらに時を過ごすことは、きわめておろそかな事である。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻二亦此の志しをおごす事は、切に世間の無常を思ふべきなり、此の事は亦只仮令の観法なんどにすべきことにあらず、亦無きことをつくりて思ふべきことにもあらず、真実に眼前の道理なり、人のをしへ、聖教の文、證道の理を待つべからず、朝に生じて夕べに死し、昨日みし人今日はなきこと、眼に遮ぎり耳にちかし、是は他のうへにて見聞することなり、我が身にひきあてゝ道理を思ふに、たとひ七旬八旬に命を期すべくとも、終に死ぬべき道理に依て死す、其の間の憂へ楽み、思愛怨敵等を思ひとげば、いかにてもすごしてん、只仏道を信じて涅槃の真楽を求むべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻二古人の云く、朝に道を聞て夕へに死すとも可なりと、いま学道の人も此の心あるべきなり、曠劫多生の間だ、いくたびか徒らに生じ徒らに死せしに、まれに人身を受けて、たまたま仏法にあへる時、此の身を度せずんば、何れの生にか此身を度せん、縦ひ身を惜みたもちたりともかなふべからず、ついに捨てゝ行く命ちを、一日片時なりとも仏法のために捨てたらんは、永劫の業因なるべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻二夜話に云く、学人は必ずしぬべきことを思ふべき道理は勿論なり、たとひ其のことをば思はずとも、暫く先づ光陰を徒らに過さじと思ひて、無用のことをなして、徒らに時を過さず、詮あることをなして、時を過すべきなり、其のなすべきことの中にも、亦一切のこといづれか大切なると云ふに、仏祖の行履の外は無用なりと知るべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻二後のこと明日の活計を思ふて、棄つへき世を捨てず、行ずべき道を行せずして、徒らに日夜を過すは口惜きことなり、只思ひきりて明日の活計なくば、飢へ死にもせよ、寒ごへ死にもせよ、今日一日道を聞て、仏意に随て、死せんと思ふ心をまづ発すべきなり、然るときんば道を行じ得んこと一定なり、此の心なければ世にそむき道を学する様なれども、猶しり足をふみて、夏冬の衣服等のことをした心にかけて、明日猶明年の活命を思ふて仏法を学せんは、万劫千生学すともかなふべしともおぼへず、亦さる人もやあらんずらん、存知の意趣、仏祖の教へにはあるべしともおぼへざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一一切のことにのぞんで道理を案ずべきなり、念々止まらず、日々遷流して、無常迅速なること眼前の道理なり、知識経巻の教へを待つべからず、只念々に明日を期することなく、当日当時ばかりを思ふて、後日は太だ不定なり、知り難ければ、只今日ばかり存命のほど、仏道に随はんと思ふべきなり、仏道に随ふと云は、興法利生の為に身命を捨てゝ、諸事を行じもてゆくなり、問て曰く、
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、学道の人は後日をまちて行道せんと思ふことなかれ、たゞ今日今時をすごさずして、日々時々を勤むべきなり、爰にある在家人長病せしが、去年の春のころ、予にあひちぎりて云く、当時の病ひ療治せは、必定妻子を捨て、寺の辺に庵室をかまへむすんで、一月両度の布薩にあひ、日々行道法門談義を見聞して、随分に戒行を守りて、生涯を送らんと云ひき、その後種々に療治せしに依て、少き元気あり、しかれども亦再発ありて、日月空くすごしき、今年正月より俄に大事になりて、苦痛次第にせむるほどに、日来支度する庵室の道具をはこびて作るほどのひまもなき故に、先づ人の庵室をかりて住せしが、わづかに一両月の中に死し去りぬ、