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正法眼蔵随聞記 / 巻二

古人の云く、朝に道を聞て夕へに死すとも可なりと、いま學道の人も此の心あるべきなり、曠劫多生の間だ、いくたびか徒らに生じ徒らに死せしに、まれに人身を受けて、たまたま佛法にあへる時、此の身を度せずんば、何れの生にか此身を度せん、縱ひ身を惜みたもちたりともかなふべからず、ついに捨てゝ行く命ちを、一日片時なりとも佛法のために捨てたらんは、永劫の業因なるべし、

新字:古人の云く、朝に道を聞て夕へに死すとも可なりと、いま学道の人も此の心あるべきなり、曠劫多生の間だ、いくたびか徒らに生じ徒らに死せしに、まれに人身を受けて、たまたま仏法にあへる時、此の身を度せずんば、何れの生にか此身を度せん、縦ひ身を惜みたもちたりともかなふべからず、ついに捨てゝ行く命ちを、一日片時なりとも仏法のために捨てたらんは、永劫の業因なるべし、

書き下し

古人の云く、朝に道を聞て夕へに死すとも可なりと、いま学道の人も此の心あるべきなり、曠劫多生の間だ、いくたびか徒らに生じ徒らに死せしに、まれに人身を受けて、たまたま仏法にあへる時、此の身を度せずんば、何れの生にか此身を度せん、縦ひ身を惜みたもちたりともかなふべからず、ついに捨てゝ行く命ちを、一日片時なりとも仏法のために捨てたらんは、永劫の業因なるべし、

現代語訳

古人は言った、朝に道を聞いて夕べに死んでも可なり、と。今、道を学ぶ人もこの心があるべきである。はるかな昔から多くの生を経る間、幾たびいたずらに生まれ、いたずらに死んできたことか。まれに人の身を受けて、たまたま仏法に逢えた時、この身を度さないならば、どの生でこの身を度すのか。たとえ身を惜しんで保ったとしても、かなうはずがない。ついには捨てて行く命を、一日片時であっても仏法のために捨てたならば、永劫にわたる業の因となるであろう。

解説

人の身を受け、仏法に逢うという二つの偶然が重なった今を、逃せない機会として示す。惜しんでも保てないという事実を挟み、どうせ手放すものなら使え、という筋に運ぶ。一日片時でよいという控えめな条件が置かれるところが特徴で、生涯を賭けよという要求にはなっていない。

この章句が説くこと

人身無常機会朝聞夕死業因度す

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