師導古典を学びたいすべての人に

正法眼蔵随聞記 / 巻一

世人多くは、我はもとより人にもよしと云はれ思はれんと思ふなり、然あれども能くも云はれ、思はれざるなり、次第に我執を捨て知識の言に隨ひゆけば、精進するなり、理をば心得たるやうに云て、さはさにあれども我は其事を捨にぬと云て執し好み、修すれば、彌よ沈淪するなり、禪僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり、利鈍賢愚を論せず坐禪すれば、自然によくなるなり、

新字:世人多くは、我はもとより人にもよしと云はれ思はれんと思ふなり、然あれども能くも云はれ、思はれざるなり、次第に我執を捨て知識の言に随ひゆけば、精進するなり、理をば心得たるやうに云て、さはさにあれども我は其事を捨にぬと云て執し好み、修すれば、弥よ沈淪するなり、禅僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり、利鈍賢愚を論せず坐禅すれば、自然によくなるなり、

書き下し

世人多くは、我はもとより人にもよしと云はれ思はれんと思ふなり、然あれども能くも云はれ、思はれざるなり、次第に我執を捨て知識の言に随ひゆけば、精進するなり、理をば心得たるやうに云て、さはさにあれども我は其事を捨にぬと云て執し好み、修すれば、弥よ沈淪するなり、禅僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり、利鈍賢愚を論せず坐禅すれば、自然によくなるなり、

現代語訳

世の人の多くは、自分はもとより人からもよいと言われ、よく思われたいと思うものである。しかしながら、うまくそう言われもせず、思われもしないものである。次第に我執を捨て、善知識の言葉に随っていけば、修行は進むのである。道理は心得たように言いながら、そうはいってもこれだけは捨てられないと言って執着し好みながら修めるなら、いよいよ深く沈んでいくばかりである。禅僧がよくなる第一の用心は、ただひたすら坐ることである。利発か鈍いか、賢いか愚かかを論ぜず、坐禅すれば自然によくなるのである。

解説

よく思われたいという願いは、たいてい叶わないという観察から入る。叶わないから捨てよというのではなく、そこに費やす力を我執を減らすほうへ向け替えよという筋である。「理をば心得たるやうに云て」は、言葉の上で納得しながら一点だけ手放さない態度を指しており、随聞記が繰り返し突く急所である。結びで再び只管打坐に戻り、才の有無を問わないと言い添えている。

この章句が説くこと

我執名誉修行只管打坐善知識利鈍

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる