正法眼蔵随聞記 / 巻六
亦云く、學道の用心は只本執を放下すべし、まづ身の威儀をさきとしてあらたむれば、心も隨ふて改まるなり、先づ律儀戒行を守れば、心も隨ふて改まるべし、宋土には俗人等の常の習ひに、父母に孝養の爲に宗廟にて各々聚會し、泣まねをするほどに、終には實に泣くなり、學道の人も初めより道心なくとも、只しひて佛道を好み學せば、終には實の道心も起るべきなり、
新字:亦云く、学道の用心は只本執を放下すべし、まづ身の威儀をさきとしてあらたむれば、心も随ふて改まるなり、先づ律儀戒行を守れば、心も随ふて改まるべし、宋土には俗人等の常の習ひに、父母に孝養の為に宗廟にて各々聚会し、泣まねをするほどに、終には実に泣くなり、学道の人も初めより道心なくとも、只しひて仏道を好み学せば、終には実の道心も起るべきなり、
書き下し
亦云く、学道の用心は只本執を放下すべし、まづ身の威儀をさきとしてあらたむれば、心も随ふて改まるなり、先づ律儀戒行を守れば、心も随ふて改まるべし、宋土には俗人等の常の習ひに、父母に孝養の為に宗廟にて各々聚会し、泣まねをするほどに、終には実に泣くなり、学道の人も初めより道心なくとも、只しひて仏道を好み学せば、終には実の道心も起るべきなり、
現代語訳
またこう言われた。学道の心得は、ただもとからの執着を放り捨てることである。まず身の威儀を先に改めれば、心もそれに従って改まるのである。まず律儀と戒行を守れば、心も従って改まるであろう。宋の国では、俗人などの常の習わしに、父母への孝養のために宗廟でそれぞれ集まり、泣くまねをしているうちに、ついには本当に泣くのである。学道の人も初めから道心がなくても、ただ強いて仏道を好んで学べば、ついには真実の道心も起こるであろう。
解説
心が伴わないまま形だけ行うことを、道元はここで肯定する。宋の宗廟で泣きまねが本当の涙に変わるという例が具体的で、身の威儀と戒行を先に置けば心は後から従うという順序を示す。道心がないから始められない、という言い分をここで断っている。
この章句が説くこと
威儀放下道心形戒習
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