正法眼蔵随聞記 / 巻一
示して云く、學道の人世情を捨つべきについて、重々の用心あるべし、世をすて、家をすて、身をすて、心を捨つるなり、能々思量すべきなり、世を遁て山林に隱居すれども、吾が重代の家を絕やさず、家門親族のことを思ふもあり、亦世をものがれ、家をもすてゝ、親族境界をも遠離すれども、我が身を思て、苦るしからんことをばせじ、病ひ起るべからん事は佛道なりとも行ぜじと思ふも、いまだ身を捨ざるなり、亦身をも惜ます、難行苦行すれども、心佛道に入らずして、我が心に差ふことをば、佛道なれどもせじと思ふは、心を捨ざるなり、
新字:示して云く、学道の人世情を捨つべきについて、重々の用心あるべし、世をすて、家をすて、身をすて、心を捨つるなり、能々思量すべきなり、世を遁て山林に隠居すれども、吾が重代の家を絶やさず、家門親族のことを思ふもあり、亦世をものがれ、家をもすてゝ、親族境界をも遠離すれども、我が身を思て、苦るしからんことをばせじ、病ひ起るべからん事は仏道なりとも行ぜじと思ふも、いまだ身を捨ざるなり、亦身をも惜ます、難行苦行すれども、心仏道に入らずして、我が心に差ふことをば、仏道なれどもせじと思ふは、心を捨ざるなり、
書き下し
示して云く、学道の人世情を捨つべきについて、重々の用心あるべし、世をすて、家をすて、身をすて、心を捨つるなり、能々思量すべきなり、世を遁て山林に隠居すれども、吾が重代の家を絶やさず、家門親族のことを思ふもあり、亦世をものがれ、家をもすてゝ、親族境界をも遠離すれども、我が身を思て、苦るしからんことをばせじ、病ひ起るべからん事は仏道なりとも行ぜじと思ふも、いまだ身を捨ざるなり、亦身をも惜ます、難行苦行すれども、心仏道に入らずして、我が心に差ふことをば、仏道なれどもせじと思ふは、心を捨ざるなり、
現代語訳
示して言われた。学道の人は世間の情を捨てるべきであるが、それについて何重もの用心があるべきである。世を捨て、家を捨て、身を捨て、心を捨てるのである。よくよく思量すべきである。世を逃れて山林に隠居しても、自分の代々の家を絶やすまいとし、家門や親族のことを思う者もある。また世をも逃れ、家をも捨てて、親族や境遇をも遠く離れても、自分の身を思って、苦しいであろうことはするまい、病が起こりそうなことは仏道であっても行うまいと思うのも、いまだ身を捨てていないのである。また身をも惜しまず、難行苦行をしても、心が仏道に入らずに、自分の心に違うことは、仏道であってもするまいと思うのは、心を捨てていないのである。
解説
この章句が説くこと
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孫子・九地篇山林・険阻・沮沢、凡そ行き難きの道なる者を、圮地と為す。
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『正法眼蔵随聞記』巻二示して云く、行者先づ心をだにも調伏しつれば、身をも世をも捨ることは易きなり、只言語につけ行儀につけて、人目を思ひて、此の事は悪事なれば人あしく思ふべしとてなさず、我れ此の事をせんこそ仏法者と人は見んとて、事に触て善きことをせんとするも猶ほ世情なり、然あればとて、亦恣いまゝに我が心に任せて悪事をするは一向の悪人なり、所詮悪心を忘れ、我が身を忘れて、只一向に仏法の為にすべきなり、向ひ来らんごとに随て用心すべきなり、初心の行者は、先づ世情なりとも、人情なりとも、悪事をば心に制し、善事をば身に行するが便ち身心を捨つるにて有るなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一示して云く、人は思ひ切て命をも棄て、身肉手足をも截ことは中々せくるゝなり、然あれば世間の事を思ふに、名利執心の為にも多くかくの如く思ひ切るなり、只依り来る時に、事に触れ物に随て、心品を調ふること難きなり、学者身命を捨ると思ふて、且くおしゝづめて、云ふべきことをも、修すべきことをも、道理に順ずるか順せざるかと案じて、道理に順せば云ひ、若くは行じもすべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二後のこと明日の活計を思ふて、棄つへき世を捨てず、行ずべき道を行せずして、徒らに日夜を過すは口惜きことなり、只思ひきりて明日の活計なくば、飢へ死にもせよ、寒ごへ死にもせよ、今日一日道を聞て、仏意に随て、死せんと思ふ心をまづ発すべきなり、然るときんば道を行じ得んこと一定なり、此の心なければ世にそむき道を学する様なれども、猶しり足をふみて、夏冬の衣服等のことをした心にかけて、明日猶明年の活命を思ふて仏法を学せんは、万劫千生学すともかなふべしともおぼへず、亦さる人もやあらんずらん、存知の意趣、仏祖の教へにはあるべしともおぼへざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四亦示して云く、学人の第一の用心は、先つ我見を離るべし、我見を離るゝと云ふは、此の身を執すべからず、設ひ古人の語話を究め、常坐鉄石の如くなりとも、此の身に著して離れずんば、万劫千生にも仏祖の道を得べからす、いかに況や権実の教法、顕密の正教を悟り得たりと云とも、身を執する心を離れずんば、徒らに他の宝を数て自ら半銭の分なし、
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『正法眼蔵随聞記』巻三示して云く、学道の人身心を放下して、一向に仏法に入るべし、古人云く、百尺竿頭如何進歩と、然あれば百尺の竿頭にのぼりて、足をはなたば死ぬべしと思ふて、つよく取つく心のあるなり、其れを一歩を進めよと云ふは、よもあしからじと思ひ切て、身命を放下するやうに、度世の業よりはじめて、一身の活計に到るまで、思ひすつべきなり、其れを捨てさらんほどは、いかに頭燃を払ふて学道するやうなりとも、道を得ることはかなふべからざるなり、たゝ思ひ切て身心ともに放下すべきなり、有る時、