正法眼蔵随聞記 / 巻六
示して云く、或る人の云く、我は病者なり、非器なり、學道には堪へず、法門の最要を聞て、獨住隱居して身をやしなひ、病をたすけて、一生を終へんと思ふと、これは太だ非なり、先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈に咸く皆上器ならんや、滅後を思へばいくばくならず、在世を考るに人々みな俊なるにあらず、善人もあり、惡人もあり、比丘衆の中に不可思議の惡行なるもあり、最下品の器量もあり、しかあれども卑下しやめりなんと稱して道心をおこさず、非器なりと云て學道せざるはなし、今生に若し學道修行せずんば、何れの生にか器量の人となり、無病の者と成て學道せんや、只身命を顧りみず、發心修行するこそ、學道の最要なれ、
新字:示して云く、或る人の云く、我は病者なり、非器なり、学道には堪へず、法門の最要を聞て、独住隠居して身をやしなひ、病をたすけて、一生を終へんと思ふと、これは太だ非なり、先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈に咸く皆上器ならんや、滅後を思へばいくばくならず、在世を考るに人々みな俊なるにあらず、善人もあり、悪人もあり、比丘衆の中に不可思議の悪行なるもあり、最下品の器量もあり、しかあれども卑下しやめりなんと称して道心をおこさず、非器なりと云て学道せざるはなし、今生に若し学道修行せずんば、何れの生にか器量の人となり、無病の者と成て学道せんや、只身命を顧りみず、発心修行するこそ、学道の最要なれ、
書き下し
示して云く、或る人の云く、我は病者なり、非器なり、学道には堪へず、法門の最要を聞て、独住隠居して身をやしなひ、病をたすけて、一生を終へんと思ふと、これは太だ非なり、先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈に咸く皆上器ならんや、滅後を思へばいくばくならず、在世を考るに人々みな俊なるにあらず、善人もあり、悪人もあり、比丘衆の中に不可思議の悪行なるもあり、最下品の器量もあり、しかあれども卑下しやめりなんと称して道心をおこさず、非器なりと云て学道せざるはなし、今生に若し学道修行せずんば、何れの生にか器量の人となり、無病の者と成て学道せんや、只身命を顧りみず、発心修行するこそ、学道の最要なれ、
現代語訳
示して言われた。ある人が言うには、自分は病人であり器ではない、学道には堪えられない、法門の最も肝要なところを聞いて、独り隠れ住んで身を養い、病を助けて一生を終えたいと思う、と。これははなはだ非である。先聖が必ずしも金の骨であったわけではない。古人がどうしてことごとくみな上の器であろうか。釈尊の滅後を思えばいくらも経っていない。在世を考えても人はみな優れていたわけではない。善人もあり悪人もあり、比丘衆の中に思いもよらぬ悪行の者もあり、最下品の器量の者もあった。それでも、自分を卑下してやめてしまおうと言って道心を起こさず、器ではないと言って学道しない者はいない。今生でもし学道し修行しなければ、どの生で器量の人となり、無病の者となって学道するのか。ただ身命を顧みず発心し修行することこそ、学道の最も肝要なところである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、仏々祖々皆な本は凡夫なり、凡夫の時は必ずしも悪業もあり、悪心もあり、鈍もあり、癡もあり、然あれども、尽く改めて、知識に随て修行せしゆゑに、皆仏祖と成しなり、今の人も然あるべし、我が身愚鈍なればとて卑下することなかれ、今生に発心せずんば何の時を待てか行道すべきや、今强て修せば必ずしも道を得べきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻六行道の人居所等を支度し、衣鉢等を調へて、後に行道せんと思ふことなかれ、貧窮の人衣鉢資具にともしくして、調ふを待つほどに、次第に臨終ちかづきよるはいかん、ゆゑに居所を待ち、衣鉢を調へて、後に行道せんと欲せば、一生空く過すべきなり、只衣鉢等はなけれども、在家も仏道は行ずるぞかしと思ひて行ずべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四人々皆な仏法の器なり、かならず非器なりと思ふことなかれ、既に心あれば善悪を分別しつべし、手あり足あり、合掌歩行にかげたる事あるベからず、しかあれば仏法を行ずるには、器をえらぶべきにあらず、人界の生は皆な是れ器量なり、余の畜生等の生にては叶ふべからす、学道の人只明日を期することなかれ、今日今時ばかり仏法に随て行しゆくべきなり、示して云く、