正法眼蔵随聞記 / 巻四
一日示して云く、俗人の云く、何人か好衣を望まざらん、誰人か重味を貪らざらん、然あれども道を存せんと思ふ人は、山に入り、雲に眠り、寒むきをも忍ひ、飢ねをも忍ふ、先人苦みなきに非す、是れを忍ひて道を守ればなり、後人是れを聽て道を慕ひ、德を仰くなり、俗すら賢なるは猶がくの如し、佛道豈に然らさらんや、古人もみな金骨にはあらず、在世もことごとく上器にはあらず、大小の律藏によりて諸の比丘をかんがふるに、不可思議の不當の心を起すもありき、然あれども後には皆得道し、羅漢となれりと見えたり、しかあれば我れらも賤く拙なしと云ふとも、發心修行せば、決定得道すへしと知て、卽ち發心するなり、古へも皆苦を忍ひ、寒にたへて、愁ひなから修行せしなり、今の學者苦しく愁るとも、
新字:一日示して云く、俗人の云く、何人か好衣を望まざらん、誰人か重味を貪らざらん、然あれども道を存せんと思ふ人は、山に入り、雲に眠り、寒むきをも忍ひ、飢ねをも忍ふ、先人苦みなきに非す、是れを忍ひて道を守ればなり、後人是れを聴て道を慕ひ、徳を仰くなり、俗すら賢なるは猶がくの如し、仏道豈に然らさらんや、古人もみな金骨にはあらず、在世もことごとく上器にはあらず、大小の律蔵によりて諸の比丘をかんがふるに、不可思議の不当の心を起すもありき、然あれども後には皆得道し、羅漢となれりと見えたり、しかあれば我れらも賤く拙なしと云ふとも、発心修行せば、決定得道すへしと知て、即ち発心するなり、古へも皆苦を忍ひ、寒にたへて、愁ひなから修行せしなり、今の学者苦しく愁るとも、
書き下し
一日示して云く、俗人の云く、何人か好衣を望まざらん、誰人か重味を貪らざらん、然あれども道を存せんと思ふ人は、山に入り、雲に眠り、寒むきをも忍ひ、飢ねをも忍ふ、先人苦みなきに非す、是れを忍ひて道を守ればなり、後人是れを聴て道を慕ひ、徳を仰くなり、俗すら賢なるは猶がくの如し、仏道豈に然らさらんや、古人もみな金骨にはあらず、在世もことごとく上器にはあらず、大小の律蔵によりて諸の比丘をかんがふるに、不可思議の不当の心を起すもありき、然あれども後には皆得道し、羅漢となれりと見えたり、しかあれば我れらも賤く拙なしと云ふとも、発心修行せば、決定得道すへしと知て、即ち発心するなり、古へも皆苦を忍ひ、寒にたへて、愁ひなから修行せしなり、今の学者苦しく愁るとも、
現代語訳
ある日示して言われた。俗人は言う、誰が好い衣を望まないだろうか、誰が重い味わいを貪らないだろうか、と。しかしながら道を保とうと思う人は、山に入り雲に眠り、寒さをも忍び、飢えをも忍ぶ。先人に苦しみがなかったのではない。これを忍んで道を守ったからである。後の人はこれを聞いて道を慕い、徳を仰ぐのである。俗世でさえ賢い者はなおこのようである。仏道がどうしてそうでないことがあろうか。古人もみな金の骨であったのではない。在世の弟子もことごとく上等の器であったのではない。大小の律蔵によって諸々の比丘を考えるに、思いも寄らない不当な心を起こす者もあった。しかしながら後にはみな道を得て、羅漢となったと見えている。であるから、われらも賤しく拙いと言っても、発心修行すれば必ず道を得るはずだと知って、すぐに発心するのである。昔もみな苦を忍び、寒さに堪えて、愁えながら修行したのである。今の学者も苦しく愁えるとしても、
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、或る人の云く、我は病者なり、非器なり、学道には堪へず、法門の最要を聞て、独住隠居して身をやしなひ、病をたすけて、一生を終へんと思ふと、これは太だ非なり、先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈に咸く皆上器ならんや、滅後を思へばいくばくならず、在世を考るに人々みな俊なるにあらず、善人もあり、悪人もあり、比丘衆の中に不可思議の悪行なるもあり、最下品の器量もあり、しかあれども卑下しやめりなんと称して道心をおこさず、非器なりと云て学道せざるはなし、今生に若し学道修行せずんば、何れの生にか器量の人となり、無病の者と成て学道せんや、只身命を顧りみず、発心修行するこそ、学道の最要なれ、
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、仏々祖々皆な本は凡夫なり、凡夫の時は必ずしも悪業もあり、悪心もあり、鈍もあり、癡もあり、然あれども、尽く改めて、知識に随て修行せしゆゑに、皆仏祖と成しなり、今の人も然あるべし、我が身愚鈍なればとて卑下することなかれ、今生に発心せずんば何の時を待てか行道すべきや、今强て修せば必ずしも道を得べきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二然あれば仏法の学人も、世を離れ家を出ればとて、徒らに身を安すんぜんと思ふこと片時もあるべからず、初めは利あるに似たれども、後には大いに害あるなり、出家の作法に順て全く其の職を治め、其業を修すべきなり、世間の治世は先規有道をかんがへ求れども、先聖先達のたしかに相伝したる例なければ、自ら其の時の例に随ふこともあれども、仏子はたしかなる先規教文顕然なり、亦相承伝来の知識現在せり、我れに思量あり、四威儀の中において一一に先規を思ひ、先達に随ひ修行せんに、なじかは道を得ざるべき、俗は天意に合はんと思ひ、衲子は仏意に合はんと思ふ、修業ひとしくして、得果すぐれたれば、一得永得ならん、かくの如く大安業の為めに、一世幻化の此身を苦しめて仏意に随んは、唯行者の心にあるべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻六身の病者なれば病ひを治して後より修行せんと思ふは、無道心のいたす処なり、四大和合の身は誰か病無からん、古人必ずしも金骨にあらず、只志だに至りぬれば、他事を忘れて行するなり、大事身の上に来れば、必ず小事を忘るゝ習ひなり、仏道は一大事なれば、一生に窮めんと思ひて、日々時々を空くすごさじと思ふべきなり、古人の云く、光陰虚く度ることなかれと云々、
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『正法眼蔵随聞記』巻一今の衲子も是らほどの心を一度発すべきなり、命を軽じ衆生を憐む心深くして、身を仏制に任ぜんと思ふ心を発すべし、若し先きより此の心一念も有らば失なはじと保つべし、是れほどの心一度おこさずして仏法を悟ることは有るべからざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二今ま是を案ずるに、志の至ると至らざるとなり、真実の志しを発して、随分に参学する人得ずと云ふことなきなり、その用心の様は、何事を専らにしその行を急にすべしと云ことは次のことなり、先づ只欣求の志の切なるべきなり、譬へば重き宝をぬすまんと思ひ、强き敵をうたんと思ひ、高き色にあはんと思ふ心あらん人は、行住坐臥、ことにふれ、おりに随て、種々の事はかはり来るとも、其れに随て隙を求め、心に懸くるなり、この心あながぢに切なるもの、とげずと云ふことなきなり、