正法眼蔵随聞記 / 巻四
人々皆な佛法の器なり、かならず非器なりと思ふことなかれ、既に心あれば善惡を分別しつべし、手あり足あり、合掌步行にかげたる事あるベからず、しかあれば佛法を行ずるには、器をえらぶべきにあらず、人界の生は皆な是れ器量なり、餘の畜生等の生にては叶ふべからす、學道の人只明日を期することなかれ、今日今時ばかり佛法に隨て行しゆくべきなり、示して云く、
新字:人々皆な仏法の器なり、かならず非器なりと思ふことなかれ、既に心あれば善悪を分別しつべし、手あり足あり、合掌歩行にかげたる事あるベからず、しかあれば仏法を行ずるには、器をえらぶべきにあらず、人界の生は皆な是れ器量なり、余の畜生等の生にては叶ふべからす、学道の人只明日を期することなかれ、今日今時ばかり仏法に随て行しゆくべきなり、示して云く、
書き下し
人々皆な仏法の器なり、かならず非器なりと思ふことなかれ、既に心あれば善悪を分別しつべし、手あり足あり、合掌歩行にかげたる事あるベからず、しかあれば仏法を行ずるには、器をえらぶべきにあらず、人界の生は皆な是れ器量なり、余の畜生等の生にては叶ふべからす、学道の人只明日を期することなかれ、今日今時ばかり仏法に随て行しゆくべきなり、示して云く、
現代語訳
人々はみな仏法の器である。必ず器でないと思ってはならない。すでに心があるから善悪を分別できるはずである。手があり足がある。合掌や歩行に欠けたところがあるはずがない。であるから仏法を行ずるには、器を選ぶべきではない。人間界の生はみな器量である。他の畜生などの生ではかなうはずがない。学道の人は、ただ明日を期してはならない。今日この時ばかり仏法に随って行っていくべきである。
解説
器であることの条件を、極めて低く具体的に置いている。心があって善悪を分けられること、手足があって合掌と歩行ができること、これだけである。人として生まれていること自体が器量だという言い方で、資質の話を終わらせ、あとは今日この時に随うだけだと結ぶ。
この章句が説くこと
器下根人身今日分別合掌
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