正法眼蔵随聞記 / 巻五
示して云く、古人多くは云ふ、光陰空く度ること莫れ、亦云く、時光徒らに過すことなかれと、今學道の人須く寸陰を惜むべし、露命消やすし、時光速かにうつる、暫くも存する間た餘事を管することなかれ、唯須く道を學すべし、今時の人、或は父母の恩を捨て難しと云ひ、或は主君の命は背き難しと云ひ、或は妻子眷屬に離れ難しと云ひ、或は眷屬等の活命存し難しと云ひ、或は世人誹謗しつへしと云ひ、或は貧ふして道具調ひ難しと云ひ、或は非器にして學道に堪へかたしと云ふ、かくのごとく情を廻らして、主君父母をも離れず、妻子眷屬をもすてず、世情に隨ひ、財寶を貧ぼるほどに、一生空く過して、正しく命終の時に當ては後悔すべし、須く靜坐して道理を案し、速かに道心を起さんことを決定すべし、主君父母も我に悟りを與ふべからず、妻子眷屬も我が苦みを救ふべからず、財寶も我が生死輪廻を截斷すべからず、世人も我をたすくべきにあらず、非器なりと云て修せずんば、何れの劫にか得道せんや、只須く萬事を放下して、一向に學道すべし、後時を存することなかれ、
新字:示して云く、古人多くは云ふ、光陰空く度ること莫れ、亦云く、時光徒らに過すことなかれと、今学道の人須く寸陰を惜むべし、露命消やすし、時光速かにうつる、暫くも存する間た余事を管することなかれ、唯須く道を学すべし、今時の人、或は父母の恩を捨て難しと云ひ、或は主君の命は背き難しと云ひ、或は妻子眷属に離れ難しと云ひ、或は眷属等の活命存し難しと云ひ、或は世人誹謗しつへしと云ひ、或は貧ふして道具調ひ難しと云ひ、或は非器にして学道に堪へかたしと云ふ、かくのごとく情を廻らして、主君父母をも離れず、妻子眷属をもすてず、世情に随ひ、財宝を貧ぼるほどに、一生空く過して、正しく命終の時に当ては後悔すべし、須く静坐して道理を案し、速かに道心を起さんことを決定すべし、主君父母も我に悟りを与ふべからず、妻子眷属も我が苦みを救ふべからず、財宝も我が生死輪廻を截断すべからず、世人も我をたすくべきにあらず、非器なりと云て修せずんば、何れの劫にか得道せんや、只須く万事を放下して、一向に学道すべし、後時を存することなかれ、
書き下し
示して云く、古人多くは云ふ、光陰空く度ること莫れ、亦云く、時光徒らに過すことなかれと、今学道の人須く寸陰を惜むべし、露命消やすし、時光速かにうつる、暫くも存する間た余事を管することなかれ、唯須く道を学すべし、今時の人、或は父母の恩を捨て難しと云ひ、或は主君の命は背き難しと云ひ、或は妻子眷属に離れ難しと云ひ、或は眷属等の活命存し難しと云ひ、或は世人誹謗しつへしと云ひ、或は貧ふして道具調ひ難しと云ひ、或は非器にして学道に堪へかたしと云ふ、かくのごとく情を廻らして、主君父母をも離れず、妻子眷属をもすてず、世情に随ひ、財宝を貧ぼるほどに、一生空く過して、正しく命終の時に当ては後悔すべし、須く静坐して道理を案し、速かに道心を起さんことを決定すべし、主君父母も我に悟りを与ふべからず、妻子眷属も我が苦みを救ふべからず、財宝も我が生死輪廻を截断すべからず、世人も我をたすくべきにあらず、非器なりと云て修せずんば、何れの劫にか得道せんや、只須く万事を放下して、一向に学道すべし、後時を存することなかれ、
現代語訳
示して言われた。古人は多く言う、光陰を空しく渡ることなかれ、と。また言う、時を無駄に過ごしてはならない、と。今、学道の人はすべからく寸陰を惜しむべきである。露のような命は消えやすい。時は速やかに移る。しばらく生きている間、他の事に関わってはならない。ただすべからく道を学ぶべきである。今どきの人は、あるいは父母の恩は捨てがたいと言い、あるいは主君の命は背きがたいと言い、あるいは妻子や身内から離れがたいと言い、あるいは身内の暮らしが立ちがたいと言い、あるいは世の人がそしるだろうと言い、あるいは貧しくて道具が整いがたいと言い、あるいは器でなくて学道に堪えがたいと言う。このように情をめぐらして、主君父母をも離れず、妻子身内をも捨てず、世の情に随い、財宝を貪るうちに、一生を空しく過ごして、まさに命が終わる時に当たっては後悔するはずである。すべからく静かに坐して道理を考え、速やかに道心を起こすことを決定すべきである。主君父母も自分に悟りを与えられない。妻子身内も自分の苦しみを救えない。財宝も自分の生死輪廻を断ち切れない。世の人も自分を助けられるのではない。器でないと言って修めないなら、いつの世に道を得るのか。ただすべからく万事を放り捨てて、ひたすらに道を学ぶべきである。後の時を当てにしてはならない。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、或る人の云く、我は病者なり、非器なり、学道には堪へず、法門の最要を聞て、独住隠居して身をやしなひ、病をたすけて、一生を終へんと思ふと、これは太だ非なり、先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈に咸く皆上器ならんや、滅後を思へばいくばくならず、在世を考るに人々みな俊なるにあらず、善人もあり、悪人もあり、比丘衆の中に不可思議の悪行なるもあり、最下品の器量もあり、しかあれども卑下しやめりなんと称して道心をおこさず、非器なりと云て学道せざるはなし、今生に若し学道修行せずんば、何れの生にか器量の人となり、無病の者と成て学道せんや、只身命を顧りみず、発心修行するこそ、学道の最要なれ、
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『正法眼蔵随聞記』巻六亦俗の云く、我れ金を売れども人の買ふなしと、仏祖の道も亦かくのごとし、道を惜むにはあらず、常に与ふれども、人の得ざるなり、道を得ることは、根の利鈍にはよらず、人々皆法を悟るべきなり、精進と懈怠とによりて、得道の遅速あり、進退の不同は志の至ると至らざるとなり、志しの至らざることは無常を思はざる故なり、念々に死去す、畢竟して且くも留まらず、暫く存せる間だ、時光を空くすごすことなかれ、