正法眼蔵随聞記 / 巻二
亦云く、道を得ることは心を以て得るか、身を以て得るか、教家等にも身心一如と云て、身を以て得るとは云へとも、猶一如の故にと云ふ、しかあれば正く身の得ることはたしかならす、今我が家は身心ともに得るなり、其の中に心を以て佛法を計校する間は、萬劫千生得べからず、心を放下して、知見解會を拾る時得るなり、見色明心聞聲悟道の如きも、猶を身の得るなり、然あれば心の念慮知見を一向に捨て、只管打坐すれば、道は親しみ得なり、然あれは道を得ることは正しく身を以て得るなり、是に依て坐を專らにすべしと覺えて勸むるなり、
新字:亦云く、道を得ることは心を以て得るか、身を以て得るか、教家等にも身心一如と云て、身を以て得るとは云へとも、猶一如の故にと云ふ、しかあれば正く身の得ることはたしかならす、今我が家は身心ともに得るなり、其の中に心を以て仏法を計校する間は、万劫千生得べからず、心を放下して、知見解会を拾る時得るなり、見色明心聞声悟道の如きも、猶を身の得るなり、然あれば心の念慮知見を一向に捨て、只管打坐すれば、道は親しみ得なり、然あれは道を得ることは正しく身を以て得るなり、是に依て坐を専らにすべしと覚えて勧むるなり、
書き下し
亦云く、道を得ることは心を以て得るか、身を以て得るか、教家等にも身心一如と云て、身を以て得るとは云へとも、猶一如の故にと云ふ、しかあれば正く身の得ることはたしかならす、今我が家は身心ともに得るなり、其の中に心を以て仏法を計校する間は、万劫千生得べからず、心を放下して、知見解会を拾る時得るなり、見色明心聞声悟道の如きも、猶を身の得るなり、然あれば心の念慮知見を一向に捨て、只管打坐すれば、道は親しみ得なり、然あれは道を得ることは正しく身を以て得るなり、是に依て坐を専らにすべしと覚えて勧むるなり、
現代語訳
また言われた。道を得ることは心によって得るのか、身によって得るのか。教家などでも身心一如と言って、身によって得るとは言うけれども、なお一如であるゆえにと言う。であるから、まさしく身が得るということは確かでない。今わが家では身心ともに得るのである。その中で、心をもって仏法を計り比べている間は、万劫千生得られない。心を放り捨てて、知見や理解を捨てる時に得るのである。色を見て心を明らめ、声を聞いて道を悟るというのも、なお身が得るのである。であるから、心の思いや知見を一向に捨てて、ただひたすら坐るならば、道は親しく得られるのである。であるから、道を得ることはまさしく身によって得るのである。これによって、坐を専らにすべきだと考えて勧めるのである。
解説
この章句が説くこと
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