正法眼蔵随聞記 / 巻一
奬間て云く、若し然らば何ごといかなる行か佛法に專ら好み修すべき、師師く、機に隨ひ根に順ふべしと云へども、今祖席に相傳して專らする處は坐禪なり、此の行能く衆機を兼ね、上中下根ひとしく修し得べき法なり、我れ大宋天童先師の會下にして、此道理を聞て後ち、晝夜に定坐して、極熱極寒には發病しつべしとて、諸僧しばらく放下しき、
新字:奨間て云く、若し然らば何ごといかなる行か仏法に専ら好み修すべき、師師く、機に随ひ根に順ふべしと云へども、今祖席に相伝して専らする処は坐禅なり、此の行能く衆機を兼ね、上中下根ひとしく修し得べき法なり、我れ大宋天童先師の会下にして、此道理を聞て後ち、昼夜に定坐して、極熱極寒には発病しつべしとて、諸僧しばらく放下しき、
書き下し
奨間て云く、若し然らば何ごといかなる行か仏法に専ら好み修すべき、師師く、機に随ひ根に順ふべしと云へども、今祖席に相伝して専らする処は坐禅なり、此の行能く衆機を兼ね、上中下根ひとしく修し得べき法なり、我れ大宋天童先師の会下にして、此道理を聞て後ち、昼夜に定坐して、極熱極寒には発病しつべしとて、諸僧しばらく放下しき、
現代語訳
懐奘が問うて言った。もしそうであれば、何ごと、どのような行を仏法において専らに好み修めるべきでしょうか。師が言われた。機に随い根に順ずべきであるとは言うけれども、今、祖師の席に相伝して専らとしているところは坐禅である。この行はよく多くの機を兼ね、上・中・下いずれの根の者も等しく修め得る法である。わたしは大宋の天童、先師の会下にあって、この道理を聞いてから後、昼も夜も定坐していた。ひどい暑さひどい寒さには病を発しかねないといって、僧たちはしばらく坐を放したのであった。
解説
一事を専らにせよと言われて、ではその一事は何かと問う。答えは坐禅で、その理由が能力の高低を選ばないからだという点にある。誰にでも同じように修められるという性質が、専らにする行の条件として挙げられている。後半は道元自身の在宋中の話に移り、暑さ寒さで周囲が坐を休んだという場面が、次の条の前置きになっている。
この章句が説くこと
坐禅一事機根相伝天童如浄
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、学道の最要は坐禅これ第一なり、大宋の人多く得道すること、みな坐禅のちからなり、一文不通にて無才愚癡の人も、坐禅をもつぱらすれば、その禅定の功により、多年の久学聰明の人にも勝るゝなり、しかあれば学人は祇管打坐して、他を管することなかれ、仏祖の道は只坐禅なり、他事に順ずべからず、
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『正法眼蔵随聞記』巻五ときに奘問て云く、打坐と看読とならべて此を学するに、語録公案等を見るには、百千に一つも聊か心得ることも出来るなり、坐禅にはそれほどのことの験しもなし、然かあれども猶ほ坐禅を好むべきか、答て云く、公案話頭を見て聊か知覚有る様なりとも、それは仏祖の道にとほざかる因縁なり、無所得無所悟にて、端坐して時を移さば、即祖道なるべし、古人も看語祇管坐禅ともに勧めたれども、猶ほ坐をもはらにすゝめしなり、亦話頭に依てさとりをひらきたる人あれども、其れも坐の功に依りてさとりのひらくる因縁なり、まさしきは坐によるべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻一世人多くは、我はもとより人にもよしと云はれ思はれんと思ふなり、然あれども能くも云はれ、思はれざるなり、次第に我執を捨て知識の言に随ひゆけば、精進するなり、理をば心得たるやうに云て、さはさにあれども我は其事を捨にぬと云て執し好み、修すれば、弥よ沈淪するなり、禅僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり、利鈍賢愚を論せず坐禅すれば、自然によくなるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二かくの如くなる故に、仏法は衰へ行くなり、諸方仏法の盛んなりし時は、叢林皆坐禅を専らにせしなり、近代諸方坐禅を勧めざれは、仏法澆薄しゆくなりと、かくの如くの道理を以て、衆僧をすゝめて坐禅せしめられしこと、まのあたり是れを見しなり、今の学人も彼の風を思ふべし、