正法眼蔵随聞記 / 巻一
師云く、しかなり、學人最とも百丈の規繩を守るべし、然あるに其の儀式は受戒護戒坐禪等なり、晝夜に戒經を誦し專ら戒を護持すと云は、古人の行履に隨て只管打坐すべきなり、坐禪の時何れの戒か持たざる、何れの功德か來らざる、古人行じおける處の行履皆深き心あり、私しの意樂を存ぜずして、衆に隨ひ、古人の行履に任せて行じゆくべきなり、
新字:師云く、しかなり、学人最とも百丈の規縄を守るべし、然あるに其の儀式は受戒護戒坐禅等なり、昼夜に戒経を誦し専ら戒を護持すと云は、古人の行履に随て只管打坐すべきなり、坐禅の時何れの戒か持たざる、何れの功徳か来らざる、古人行じおける処の行履皆深き心あり、私しの意楽を存ぜずして、衆に随ひ、古人の行履に任せて行じゆくべきなり、
書き下し
師云く、しかなり、学人最とも百丈の規縄を守るべし、然あるに其の儀式は受戒護戒坐禅等なり、昼夜に戒経を誦し専ら戒を護持すと云は、古人の行履に随て只管打坐すべきなり、坐禅の時何れの戒か持たざる、何れの功徳か来らざる、古人行じおける処の行履皆深き心あり、私しの意楽を存ぜずして、衆に随ひ、古人の行履に任せて行じゆくべきなり、
現代語訳
師が言われた。そのとおりである。修行者はもっとも百丈の規繩を守るべきである。そうであるが、その儀式とは受戒・護戒・坐禅などである。昼夜に戒経を誦し、もっぱら戒を護持するというのは、古人の行いに随ってただひたすら坐るということである。坐禅のとき、どの戒が持たれていないだろうか。どの功徳が来ないだろうか。古人が行ってきた行履には、みな深い心がある。自分勝手な好みを差しはさまずに、衆に随い、古人の行いに任せて行じていくべきである。
解説
問いを退けずに、まず「そのとおりだ」と受けたうえで答えを返している。持戒と坐禅を対立させず、坐禅こそがすべての戒を同時に満たす場だと言い切るのがこの条の眼目である。したがって戒を捨てたのではなく、戒の守り方が坐に収まっている。最後の「私しの意樂を存ぜずして」は、自分の判断で行を選び直すなという戒めで、随聞記に繰り返し出てくる。
この章句が説くこと
坐禅持戒規律功徳行履只管打坐
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