正法眼蔵随聞記 / 巻五
此等まではいまた百尺の竿頭を離れずとりつきたるが如し、只身心を佛法になげすてゝ、更に悟道得法までをも望む事なく修行するを以て、是を不汚染の行人とは云なり、有佛の處にもとゞまることをえず、無佛の處をも急に走過すと云ふは此の心ろなり、
新字:此等まではいまた百尺の竿頭を離れずとりつきたるが如し、只身心を仏法になげすてゝ、更に悟道得法までをも望む事なく修行するを以て、是を不汚染の行人とは云なり、有仏の処にもとゞまることをえず、無仏の処をも急に走過すと云ふは此の心ろなり、
書き下し
此等まではいまた百尺の竿頭を離れずとりつきたるが如し、只身心を仏法になげすてゝ、更に悟道得法までをも望む事なく修行するを以て、是を不汚染の行人とは云なり、有仏の処にもとゞまることをえず、無仏の処をも急に走過すと云ふは此の心ろなり、
現代語訳
これらまでは、いまだ百尺の竿の先を離れずに取りついているようなものである。ただ身心を仏法に投げ捨てて、さらに悟道し法を得ることまでも望むことなく修行するのを、これを汚染されない行人と言うのである。仏のある処にもとどまることを得ず、仏のない処をも急いで走り過ぎるというのは、この心である。
解説
四段階の最後に、望むことを一切やめて修めるという境地が置かれる。悟りを求めることまで手放して初めて、竿の先から手を放したことになる。仏のある処にもとどまらず、無い処も走り過ぎるという句は、どこにも足場を置かないことを言い、この長い条の結論になっている。
この章句が説くこと
放下不汚染悟道百尺竿頭無所求修行
関連する章句
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