正法眼蔵随聞記 / 巻一
若し此の如く詞に隨て情見本執をあらため行がば、自ら契ふ處ろあるべきなり、然あるに近代の學者自らの情見を執し、已見を本として、佛とはかふこそあるべけれと思ひ、亦吾が存ずるやうに差へば、さはあるまじいなんどゝ云て、自らが情量に似たることやあらんと迷ひありくほどに、大方佛道の精進なきなり、亦身を惜まずして、百尺の竿頭に上りて、手足を放て一步を進めよと云ふ時は、命ちありてこそ佛道も學すべけれと云て、眞實に知識に隨順せざるなり、能々思量すべきなり、
新字:若し此の如く詞に随て情見本執をあらため行がば、自ら契ふ処ろあるべきなり、然あるに近代の学者自らの情見を執し、已見を本として、仏とはかふこそあるべけれと思ひ、亦吾が存ずるやうに差へば、さはあるまじいなんどゝ云て、自らが情量に似たることやあらんと迷ひありくほどに、大方仏道の精進なきなり、亦身を惜まずして、百尺の竿頭に上りて、手足を放て一歩を進めよと云ふ時は、命ちありてこそ仏道も学すべけれと云て、真実に知識に随順せざるなり、能々思量すべきなり、
書き下し
若し此の如く詞に随て情見本執をあらため行がば、自ら契ふ処ろあるべきなり、然あるに近代の学者自らの情見を執し、已見を本として、仏とはかふこそあるべけれと思ひ、亦吾が存ずるやうに差へば、さはあるまじいなんどゝ云て、自らが情量に似たることやあらんと迷ひありくほどに、大方仏道の精進なきなり、亦身を惜まずして、百尺の竿頭に上りて、手足を放て一歩を進めよと云ふ時は、命ちありてこそ仏道も学すべけれと云て、真実に知識に随順せざるなり、能々思量すべきなり、
現代語訳
もしこのように言葉に随って、思い込みや本来の執着を改めていくならば、自ずと契うところがあるはずである。ところが近ごろの学者は、自らの思い込みに執し、自分の見解をもとにして、仏とはこうであるはずだと思い、また自分の考えるところと違えば、そうではあるまいなどと言って、自分の考えに似たことがあるかと迷い歩いているうちに、おおかた仏道の精進がなくなるのである。また、身を惜しまずに百尺の竿の先に上って、手足を放して一歩を進めよと言われるときには、命があってこそ仏道も学べるのだと言って、真実には善知識に随順しないのである。よくよく思量すべきである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻三示して云く、学道の人身心を放下して、一向に仏法に入るべし、古人云く、百尺竿頭如何進歩と、然あれば百尺の竿頭にのぼりて、足をはなたば死ぬべしと思ふて、つよく取つく心のあるなり、其れを一歩を進めよと云ふは、よもあしからじと思ひ切て、身命を放下するやうに、度世の業よりはじめて、一身の活計に到るまで、思ひすつべきなり、其れを捨てさらんほどは、いかに頭燃を払ふて学道するやうなりとも、道を得ることはかなふべからざるなり、たゝ思ひ切て身心ともに放下すべきなり、有る時、
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『正法眼蔵随聞記』巻五古人の云く、百尺の竿頭にさらに一歩をすゝむべしと、此の心は、十丈の竿のさきにのぼりて、なほ手足をはなちて、すなはち身心を放下するが如くすべし、是に付て重々の事あり、今時の人は世をのがれ家を出ぬるに似たれども、其の行履をかんがふれば、なほ実とに出家の遁世にてはなきなり、いはゆる出家と云ふは、第一まづ吾我名利を離るべきなり、是を離れずんば行道は頭燃を払ひ、精進は翹足をしるとも、只無理の勤苦のみにて、出離にはあらざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五一日示して云く、世間の人多く云ふ、某し師の言ばを聞けども我が心に叶はずと、此の言は非なり、知らず其のこゝろいかん、若しは聖教等の道理の、我が心に違背して非なりと思ふか、これは一向の凡愚なり、亦は師の云へる言が我が心に契はざるか、若し然あらばなんぞはじめより師に問ふや、亦日来の情見を以て云か、もししかあらば是れは無始よりこのかたの妄念なり、学道の用心と云ふは、我が心にたがへども、師の言は聖教の言理ならば、全く其に随て本の我見をすてゝあらためゆくべし、此の心が学道第一の故実なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二後のこと明日の活計を思ふて、棄つへき世を捨てず、行ずべき道を行せずして、徒らに日夜を過すは口惜きことなり、只思ひきりて明日の活計なくば、飢へ死にもせよ、寒ごへ死にもせよ、今日一日道を聞て、仏意に随て、死せんと思ふ心をまづ発すべきなり、然るときんば道を行じ得んこと一定なり、此の心なければ世にそむき道を学する様なれども、猶しり足をふみて、夏冬の衣服等のことをした心にかけて、明日猶明年の活命を思ふて仏法を学せんは、万劫千生学すともかなふべしともおぼへず、亦さる人もやあらんずらん、存知の意趣、仏祖の教へにはあるべしともおぼへざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四亦示して云く、学人の第一の用心は、先つ我見を離るべし、我見を離るゝと云ふは、此の身を執すべからず、設ひ古人の語話を究め、常坐鉄石の如くなりとも、此の身に著して離れずんば、万劫千生にも仏祖の道を得べからす、いかに況や権実の教法、顕密の正教を悟り得たりと云とも、身を執する心を離れずんば、徒らに他の宝を数て自ら半銭の分なし、
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『正法眼蔵随聞記』巻四一日参学の次てに示して云く、学道の人は自解を執することなかれ、設ひ会する所ろありとも、若し亦決定よからざる事もやあらん、亦是よりもよき義もやあらんと思ふて、広く知識をも訪ひ、先人の言をも尋ぬべきなり、亦先人の言なりともかたく執する事なかれ、若し是もあしくもやあるらん、信ずるにつけてもと思て、次第にすぐれたる事あらば、其れにつくべきなり、