正法眼蔵随聞記 / 巻五
古人の云く、百尺の竿頭にさらに一步をすゝむべしと、此の心は、十丈の竿のさきにのぼりて、なほ手足をはなちて、すなはち身心を放下するが如くすべし、是に付て重々の事あり、今時の人は世をのがれ家を出ぬるに似たれども、其の行履をかんがふれば、なほ實とに出家の遁世にてはなきなり、いはゆる出家と云ふは、第一まづ吾我名利を離るべきなり、是を離れずんば行道は頭燃を拂ひ、精進は翹足をしるとも、只無理の勤苦のみにて、出離にはあらざるなり、
新字:古人の云く、百尺の竿頭にさらに一歩をすゝむべしと、此の心は、十丈の竿のさきにのぼりて、なほ手足をはなちて、すなはち身心を放下するが如くすべし、是に付て重々の事あり、今時の人は世をのがれ家を出ぬるに似たれども、其の行履をかんがふれば、なほ実とに出家の遁世にてはなきなり、いはゆる出家と云ふは、第一まづ吾我名利を離るべきなり、是を離れずんば行道は頭燃を払ひ、精進は翹足をしるとも、只無理の勤苦のみにて、出離にはあらざるなり、
書き下し
古人の云く、百尺の竿頭にさらに一歩をすゝむべしと、此の心は、十丈の竿のさきにのぼりて、なほ手足をはなちて、すなはち身心を放下するが如くすべし、是に付て重々の事あり、今時の人は世をのがれ家を出ぬるに似たれども、其の行履をかんがふれば、なほ実とに出家の遁世にてはなきなり、いはゆる出家と云ふは、第一まづ吾我名利を離るべきなり、是を離れずんば行道は頭燃を払ひ、精進は翹足をしるとも、只無理の勤苦のみにて、出離にはあらざるなり、
現代語訳
古人は言った、百尺の竿の先で、さらに一歩を進めよ、と。この心は、十丈の竿の先に上って、なお手足を放して、すなわち身心を放り捨てるようにすべきだということである。これについて何重もの事がある。今どきの人は世を逃れ家を出たのに似ているけれども、そのふるまいを考えると、なお真実に出家の遁世ではないのである。いわゆる出家というのは、第一にまず我と名利を離れるべきである。これを離れないならば、道を行ずることが頭に火がついたのを払うようであり、精進が足を上げたまま立ち続けるほどであっても、ただ無理な勤苦ばかりで、迷いを離れることではないのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻三示して云く、学道の人身心を放下して、一向に仏法に入るべし、古人云く、百尺竿頭如何進歩と、然あれば百尺の竿頭にのぼりて、足をはなたば死ぬべしと思ふて、つよく取つく心のあるなり、其れを一歩を進めよと云ふは、よもあしからじと思ひ切て、身命を放下するやうに、度世の業よりはじめて、一身の活計に到るまで、思ひすつべきなり、其れを捨てさらんほどは、いかに頭燃を払ふて学道するやうなりとも、道を得ることはかなふべからざるなり、たゝ思ひ切て身心ともに放下すべきなり、有る時、
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『正法眼蔵随聞記』巻一若し此の如く詞に随て情見本執をあらため行がば、自ら契ふ処ろあるべきなり、然あるに近代の学者自らの情見を執し、已見を本として、仏とはかふこそあるべけれと思ひ、亦吾が存ずるやうに差へば、さはあるまじいなんどゝ云て、自らが情量に似たることやあらんと迷ひありくほどに、大方仏道の精進なきなり、亦身を惜まずして、百尺の竿頭に上りて、手足を放て一歩を進めよと云ふ時は、命ちありてこそ仏道も学すべけれと云て、真実に知識に随順せざるなり、能々思量すべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五此等まではいまた百尺の竿頭を離れずとりつきたるが如し、只身心を仏法になげすてゝ、更に悟道得法までをも望む事なく修行するを以て、是を不汚染の行人とは云なり、有仏の処にもとゞまることをえず、無仏の処をも急に走過すと云ふは此の心ろなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一示して云く、学道の人世情を捨つべきについて、重々の用心あるべし、世をすて、家をすて、身をすて、心を捨つるなり、能々思量すべきなり、世を遁て山林に隠居すれども、吾が重代の家を絶やさず、家門親族のことを思ふもあり、亦世をものがれ、家をもすてゝ、親族境界をも遠離すれども、我が身を思て、苦るしからんことをばせじ、病ひ起るべからん事は仏道なりとも行ぜじと思ふも、いまだ身を捨ざるなり、亦身をも惜ます、難行苦行すれども、心仏道に入らずして、我が心に差ふことをば、仏道なれどもせじと思ふは、心を捨ざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五これをものもしらぬ一向の在家人は、道心者貴き人なりと思へり、此れを少したちいでゝ施主檀那をも貪らず父母妻子をも捨てはてゝ、叢林に交りて行道するもあれども、本性懶惰懈怠なる者は、ありのまゝに解怠する事も恥かしければ、長老首座等の見る時は相かまへて行道するよしをなして、見ざる時は事に触れて怠り、徒らにおくるもあり、是は在家にしてさのみ無当ならんよりはよけれども、猶は吾我名利を捨得ざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二然あれば仏法の学人も、世を離れ家を出ればとて、徒らに身を安すんぜんと思ふこと片時もあるべからず、初めは利あるに似たれども、後には大いに害あるなり、出家の作法に順て全く其の職を治め、其業を修すべきなり、世間の治世は先規有道をかんがへ求れども、先聖先達のたしかに相伝したる例なければ、自ら其の時の例に随ふこともあれども、仏子はたしかなる先規教文顕然なり、亦相承伝来の知識現在せり、我れに思量あり、四威儀の中において一一に先規を思ひ、先達に随ひ修行せんに、なじかは道を得ざるべき、俗は天意に合はんと思ひ、衲子は仏意に合はんと思ふ、修業ひとしくして、得果すぐれたれば、一得永得ならん、かくの如く大安業の為めに、一世幻化の此身を苦しめて仏意に随んは、唯行者の心にあるべし、