正法眼蔵随聞記 / 巻五
大宋國にも離れ難き恩愛を難れ、捨て離き世財を捨て、叢林にまじはり、祖席をふる人あれども、審細に此の故實を知らすして行ずる故に、道をも悟らず、心をも明めずして、徒らに一期を空く過すもあり、その故は人の心も初めは道心を起して僧にもなり、知識にも隨へども佛となり祖とならん事をば思はずして、身の貴く我が寺の貴ときよしを施主檀那にも知られ、親類眷屬にもいひきかせて、人にたふとびられ、供養せられんと思ひ、剩へ衆僧は皆な無當不善なれども、我れ獨り道心もあり善人なる由を方便して云ひきかせ、思ひしらせんとする樣もあり、是れ等は云ふに足ざるもの、五闡提等の惡比丘のごとし、決定地獄に落る心ばへなり、
新字:大宋国にも離れ難き恩愛を難れ、捨て離き世財を捨て、叢林にまじはり、祖席をふる人あれども、審細に此の故実を知らすして行ずる故に、道をも悟らず、心をも明めずして、徒らに一期を空く過すもあり、その故は人の心も初めは道心を起して僧にもなり、知識にも随へども仏となり祖とならん事をば思はずして、身の貴く我が寺の貴ときよしを施主檀那にも知られ、親類眷属にもいひきかせて、人にたふとびられ、供養せられんと思ひ、剰へ衆僧は皆な無当不善なれども、我れ独り道心もあり善人なる由を方便して云ひきかせ、思ひしらせんとする様もあり、是れ等は云ふに足ざるもの、五闡提等の悪比丘のごとし、決定地獄に落る心ばへなり、
書き下し
大宋国にも離れ難き恩愛を難れ、捨て離き世財を捨て、叢林にまじはり、祖席をふる人あれども、審細に此の故実を知らすして行ずる故に、道をも悟らず、心をも明めずして、徒らに一期を空く過すもあり、その故は人の心も初めは道心を起して僧にもなり、知識にも随へども仏となり祖とならん事をば思はずして、身の貴く我が寺の貴ときよしを施主檀那にも知られ、親類眷属にもいひきかせて、人にたふとびられ、供養せられんと思ひ、剰へ衆僧は皆な無当不善なれども、我れ独り道心もあり善人なる由を方便して云ひきかせ、思ひしらせんとする様もあり、是れ等は云ふに足ざるもの、五闡提等の悪比丘のごとし、決定地獄に落る心ばへなり、
現代語訳
大宋国でも、離れがたい恩愛を離れ、捨てがたい世の財を捨て、叢林にまじわり祖師の席を踏む人があるけれども、細かにこの心得を知らずに行ずるゆえに、道をも悟らず、心をも明らめずに、いたずらに一生を空しく過ごす者もある。その理由は、人の心も初めは道心を起こして僧にもなり、善知識にも随うけれども、仏となり祖となる事は思わずに、自分の身が貴く、自分の寺が貴いという旨を施主や檀那にも知られ、親類や身内にも言い聞かせて、人に貴ばれ供養されようと思い、あまつさえ、僧たちはみな不当で不善であるけれども、自分ひとりは道心もあり善人であるという旨を、方便を使って言い聞かせ、思い知らせようとする者もある。これらは言うに足りない者で、五闡提などの悪比丘のようである。決まって地獄に落ちる心根である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻五これをものもしらぬ一向の在家人は、道心者貴き人なりと思へり、此れを少したちいでゝ施主檀那をも貪らず父母妻子をも捨てはてゝ、叢林に交りて行道するもあれども、本性懶惰懈怠なる者は、ありのまゝに解怠する事も恥かしければ、長老首座等の見る時は相かまへて行道するよしをなして、見ざる時は事に触れて怠り、徒らにおくるもあり、是は在家にしてさのみ無当ならんよりはよけれども、猶は吾我名利を捨得ざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻六大宋国の叢林には、末代なりといへども、学道の人千万人ある中に、或は遠方より来り、或は郷土より出たるも有り、いづれも多分は貧なり、しかあれどもいまだ貧をうれへとせず、只悟道の未だしきことをのみ愁へて、或は楼上或は閣下に坐して、考妣に喪するが如くにして、一向に仏道を修するなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五亦総じて師の心もかねず首座兄弟の見るをも見ざるをも顧みず、常に思はく、仏道は人の為ならす、身の為なりとて、我身心こそ仏となり祖とはならんと、真実に勤め営む人もあり、是は以前の人々よりはまことの道者かと覚れども、これも猶は我が身よくならんと思ひて修する故に、なほいまだ吾我を離れず、亦諸仏菩薩に随喜せられんことを思ひ、仏果菩提を成ぜんことを思ふも、我欲名利の心なほすて得ざる故なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻六僧の損ずることは多く富貴より起るなり、如来在世調達が嫉妬を起せしことも、日に五百車の供養より起れり、唯自らを損するのみに非ず、亦他をして悪をなさしむる因縁なり、実の学道の人、何としてか富貴となるべき、たとひ浄信の供養も、多くつもらば恩の思ひを作して報を思ふべし、此の国の人は亦我が為に利を思ひて施をいたす、笑ひて向へる者によく与るはさだまれる世の道理なり、只他の心にしたがはんとしてなさば、これ学道の障りなるべし、只飢を忍び寒を忍で一向に学道すべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四示して云はく、愚癡なる人は其の詮なきことを思ひ云ふなり、此につかはるゝ老尼公ありけるが、当時いやしげに在るをはづる顏にて、ともすれば人に向ては、昔しは上臘にてありしよしを語る、たとひ而今の人にさもありと思はれたりとも、なんの用とも覚えぬ、甚だ無用なりとおぼゆるなり、皆人の思はくは此の心あるかと覚ゆるなり、道心の無きほども知られたり、是れらの心を改めて、少し人には似るべきなり、亦有る入道の、極めて無道心なるあり、去り難き知音にてある故に、道心おこらんこと仏神に祈誓せよと云はんと思ふ、定て彼れ腹立して中をたがふことあらん、然あれども道心を発さヾらんには得意にてもたがひに詮なかるべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻五故に今度の入宋、一向に思切り畢りぬと云て、終に入宋せられき、先師にとりて真実の道心と存せしこと是らの道理なり、然あれば今の学人も、或は父母の為、或は師匠の為とて、無益の事を行じて、徒らに時を失ひて、諸道にすぐれたる仏道をさしおきて、空く光陰を過すことなかれ、