正法眼蔵随聞記 / 巻二
然あれば佛法の學人も、世を離れ家を出ればとて、徒らに身を安すんぜんと思ふこと片時もあるべからず、初めは利あるに似たれども、後には大いに害あるなり、出家の作法に順て全く其の職を治め、其業を修すべきなり、世間の治世は先規有道をかんがへ求れども、先聖先達のたしかに相傳したる例なければ、自ら其の時の例に隨ふこともあれども、佛子はたしかなる先規教文顯然なり、亦相承傳來の知識現在せり、我れに思量あり、四威儀の中において一一に先規を思ひ、先達に隨ひ修行せんに、なじかは道を得ざるべき、俗は天意に合はんと思ひ、衲子は佛意に合はんと思ふ、修業ひとしくして、得果すぐれたれば、一得永得ならん、かくの如く大安業の爲めに、一世幻化の此身を苦しめて佛意に隨んは、唯行者の心にあるべし、
新字:然あれば仏法の学人も、世を離れ家を出ればとて、徒らに身を安すんぜんと思ふこと片時もあるべからず、初めは利あるに似たれども、後には大いに害あるなり、出家の作法に順て全く其の職を治め、其業を修すべきなり、世間の治世は先規有道をかんがへ求れども、先聖先達のたしかに相伝したる例なければ、自ら其の時の例に随ふこともあれども、仏子はたしかなる先規教文顕然なり、亦相承伝来の知識現在せり、我れに思量あり、四威儀の中において一一に先規を思ひ、先達に随ひ修行せんに、なじかは道を得ざるべき、俗は天意に合はんと思ひ、衲子は仏意に合はんと思ふ、修業ひとしくして、得果すぐれたれば、一得永得ならん、かくの如く大安業の為めに、一世幻化の此身を苦しめて仏意に随んは、唯行者の心にあるべし、
書き下し
然あれば仏法の学人も、世を離れ家を出ればとて、徒らに身を安すんぜんと思ふこと片時もあるべからず、初めは利あるに似たれども、後には大いに害あるなり、出家の作法に順て全く其の職を治め、其業を修すべきなり、世間の治世は先規有道をかんがへ求れども、先聖先達のたしかに相伝したる例なければ、自ら其の時の例に随ふこともあれども、仏子はたしかなる先規教文顕然なり、亦相承伝来の知識現在せり、我れに思量あり、四威儀の中において一一に先規を思ひ、先達に随ひ修行せんに、なじかは道を得ざるべき、俗は天意に合はんと思ひ、衲子は仏意に合はんと思ふ、修業ひとしくして、得果すぐれたれば、一得永得ならん、かくの如く大安業の為めに、一世幻化の此身を苦しめて仏意に随んは、唯行者の心にあるべし、
現代語訳
であるから仏法の学人も、世を離れ家を出たからといって、いたずらに身を安んじようと思うことが片時もあってはならない。初めは利があるように見えても、後には大いに害があるのである。出家の作法に順って、まったくその職を治め、その務めを修めるべきである。世間の治世は先例や道ある者を考え求めるけれども、先の聖人や先達が確かに相伝した例がないので、自らその時の例に随うこともあるが、仏弟子には確かな先例と教えの文が明らかである。また相承伝来の善知識が現に在る。自分に思量があり、四威儀の中で一つ一つ先例を思い、先達に随って修行するなら、どうして道を得ないことがあろうか。俗人は天意に合おうと思い、修行僧は仏意に合おうと思う。修行は等しくして、得る果は勝れているのだから、ひとたび得れば永く得るであろう。このように大いなる安らかな業のために、一世かりそめのこの身を苦しめて仏意に随うことは、ただ行者の心にあるべきである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻一一日示して云く、人其家に生れ、其道に入らば、先づ其家業を修すべしと知るべきなり、我道にあらず己が分にあらざらんことを知り修すれば即ち非なり、今も出家人として、便ち仏家に入り僧侶とならば、須く其業を習ふべし、其業を習ひ其儀を守ると云は、我執をすてゝ知識の教に随ふなり、其大意は食欲無きなり、貪欲なからんと思はヾ、先づ須く吾我を離るべきなり、吾我を離るゝには、無常を観ずる、是れ第一の用心なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二然ありと云へども、亦そゝろに身を苦しめ、なすべからざることをなせと、仏教には勧むることなきなり、戒行律儀に随ひ以てゆけば、自然に身やすく、行儀も尋常に、人めもやすきなり、ほどに只今案の我見の身の安楽を捨てゝ、一向に仏制に順すべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二吾が心に善しと思ひ、亦世人のよしと思ふこと、必らずしも善からず、然あれば人めもわすれ、吾が意をもすてゝ、仏教に随がひゆくなり、身もくるしく、心も愁ふるとも、我が身心をば一向にすてたるものなればと思ふて、苦るしくうれへつべきことなりとも、仏祖先徳の行履ならばなすべきなり、此の事はよきこと仏道にかなひたらめと思ふて、なしたく行じたくとも、もし仏祖の行履に無からん事はなすべからす、
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『正法眼蔵随聞記』巻二示して云く、行者先づ心をだにも調伏しつれば、身をも世をも捨ることは易きなり、只言語につけ行儀につけて、人目を思ひて、此の事は悪事なれば人あしく思ふべしとてなさず、我れ此の事をせんこそ仏法者と人は見んとて、事に触て善きことをせんとするも猶ほ世情なり、然あればとて、亦恣いまゝに我が心に任せて悪事をするは一向の悪人なり、所詮悪心を忘れ、我が身を忘れて、只一向に仏法の為にすべきなり、向ひ来らんごとに随て用心すべきなり、初心の行者は、先づ世情なりとも、人情なりとも、悪事をば心に制し、善事をば身に行するが便ち身心を捨つるにて有るなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻三次でに示して云く、学道の人は先須く貧なるべし、財おほければ必ず其志を失ふ、在家学道のもの、猶ほ財宝にまとはり、居処をむさぼり、眷属に交はれば、設ひ其の志しありと云へとも、障道の因縁多し、古来俗人の参学する多けれども、其の中によしと云ふも猶を僧には及ばす、僧は三衣一鉢の外は財宝をもたず、居処を思はず、衣食を貪らざる間だ、一向に学道すれば分分に皆得益あるなり、其のゆへは貧なるが道に親きなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、学道の人は、吾我の為に仏法を学することなかれ、只仏法の為に仏法を学すべきなり、其の故実は、我が身心を一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり、其の後は一切の是非管することなく、我か心を存することなく、なし難く忍び難きことなりとも、仏法の為につかはれて、しひて此れをなすべし、我が心に强てなしたきことなりとも、仏法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり、穴賢、仏道修行の功を以て、かはりに善果を得んと思ふことなかれ、只一度仏道に廻向しつる上は、再ひ自己をかへりみず、仏法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存することなかれ、先證皆かくの如し、心にねがひ求ることなければ即ち大安楽なり、