正法眼蔵随聞記 / 巻五
今の人病なふして坐禪ゆるくすべからず、病は心に隨て轉するかと覺ゆ、世間にしやくりする人に、虛言してわびつべき事を云つげぬれば、それをわびしつべき事に思ひ、心に入て、陳ぜんとするほどに、忘れて其のしやくり留りぬ、我もそのかみ入宋の時、船中にて痢病せしに、惡風出來て船中さはぎける時、やまふ忘れて止りぬ、是を以て思ふに、學道勤勞して他事を忘るれば、病も起るまじきかと覺るなり、
新字:今の人病なふして坐禅ゆるくすべからず、病は心に随て転するかと覚ゆ、世間にしやくりする人に、虚言してわびつべき事を云つげぬれば、それをわびしつべき事に思ひ、心に入て、陳ぜんとするほどに、忘れて其のしやくり留りぬ、我もそのかみ入宋の時、船中にて痢病せしに、悪風出来て船中さはぎける時、やまふ忘れて止りぬ、是を以て思ふに、学道勤労して他事を忘るれば、病も起るまじきかと覚るなり、
書き下し
今の人病なふして坐禅ゆるくすべからず、病は心に随て転するかと覚ゆ、世間にしやくりする人に、虚言してわびつべき事を云つげぬれば、それをわびしつべき事に思ひ、心に入て、陳ぜんとするほどに、忘れて其のしやくり留りぬ、我もそのかみ入宋の時、船中にて痢病せしに、悪風出来て船中さはぎける時、やまふ忘れて止りぬ、是を以て思ふに、学道勤労して他事を忘るれば、病も起るまじきかと覚るなり、
現代語訳
今の人は病がなくとも坐禅を緩めてはならない。病は心に随って転ずるかと思われる。世間でしゃっくりをする人に、嘘を言って、困るはずの事を言い聞かせると、それを困った事に思い、心に入って、弁解しようとするうちに、忘れてそのしゃっくりが止まってしまう。わたしもかつて入宋の時、船の中で下痢の病をしたが、悪い風が出てきて船中が騒いだ時、病を忘れて止まってしまった。これをもって思うに、学道に勤め労して他の事を忘れるならば、病も起こらないのではないかと思われるのである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻一示して云く、人は思ひ切て命をも棄て、身肉手足をも截ことは中々せくるゝなり、然あれば世間の事を思ふに、名利執心の為にも多くかくの如く思ひ切るなり、只依り来る時に、事に触れ物に随て、心品を調ふること難きなり、学者身命を捨ると思ふて、且くおしゝづめて、云ふべきことをも、修すべきことをも、道理に順ずるか順せざるかと案じて、道理に順せば云ひ、若くは行じもすべきなり、
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