正法眼蔵随聞記 / 巻三
さる比丘尼問て云く、世間の女房なんどだにも佛法とて勤學す、比丘尼の身には少々の不可ありとも、何ぞ佛法にかなはざるべきと覺ゆ、いかんと、示して云く、此の義然あらず、在家の女人は其の身ながら佛法を學して、得る事はありとも、出家の人出家の心なからずは得べからず、佛法の人を擇ぶにはあらず、人の佛法に入らざればなり、出家在家の義、其の心異なるべし、在家人の出家人の心あるは出離すべし、出家人の在家人の心あるは二重のひがことなり、用心大に異なるべきことなり、
新字:さる比丘尼問て云く、世間の女房なんどだにも仏法とて勤学す、比丘尼の身には少々の不可ありとも、何ぞ仏法にかなはざるべきと覚ゆ、いかんと、示して云く、此の義然あらず、在家の女人は其の身ながら仏法を学して、得る事はありとも、出家の人出家の心なからずは得べからず、仏法の人を択ぶにはあらず、人の仏法に入らざればなり、出家在家の義、其の心異なるべし、在家人の出家人の心あるは出離すべし、出家人の在家人の心あるは二重のひがことなり、用心大に異なるべきことなり、
書き下し
さる比丘尼問て云く、世間の女房なんどだにも仏法とて勤学す、比丘尼の身には少々の不可ありとも、何ぞ仏法にかなはざるべきと覚ゆ、いかんと、示して云く、此の義然あらず、在家の女人は其の身ながら仏法を学して、得る事はありとも、出家の人出家の心なからずは得べからず、仏法の人を択ぶにはあらず、人の仏法に入らざればなり、出家在家の義、其の心異なるべし、在家人の出家人の心あるは出離すべし、出家人の在家人の心あるは二重のひがことなり、用心大に異なるべきことなり、
現代語訳
ある比丘尼が問うて言った。世間の女房などでさえ仏法だといって勤め学びます。比丘尼の身には少々の不足があっても、どうして仏法にかなわないことがありましょうか、と思われます。いかがでしょうか。示して言われた。この理屈はそうではない。在家の女人はその身のままで仏法を学んで、得ることはあっても、出家の人が出家の心がなくては得られない。仏法が人を選ぶのではない。人が仏法に入らないからである。出家と在家の義は、その心が異なるはずである。在家の人で出家の人の心のある者は、迷いを離れられる。出家の人で在家の人の心のある者は、二重の僻事である。心得は大いに異なるはずのことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
-
『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
-
『弁名』心志意孟子曰く、「其の心を尽くす者は其の性を知るなり」と。是れ其の心力を尽くして以て之を思ふを謂ふのみ。正に梁恵王の所謂「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ」と同意なり。但だ人思はざるのみ、之を思へば則ち能く性の善を知り、性の善を知れば則ち天道の善に与するを知ると言ふ。孟子の本意、是くの若きに過ぎず。宋儒先王の教法を識らず、故に論語・孟子の字面に就きて、以て学問の方を求め、遂に心を尽くすとは心の量を尽くすと謂ふ。妄なるかな。豈に所謂心の量なる者有らんや。仁斎先生曰く、「四端の心を拡充して其の極に至るを謂ふなり」と。果たして其の言の是ならんか、則ち当に其の性を知る者は其の心を尽くすと曰ふべし。其の言の倒置、豈に強ふるに非ずや。亦た聖人為らんと欲するが故のみ。
-
言志四録・言志録 第百九十八条 吾が心は即ち天なり此の心霊昭不昧、衆理具はり、万事出づ。果たして何に従りて之を得たるか。吾が生の前、此の心何処にか放在せし。吾が歿の後、此の心何処にか帰宿せん。果たして生歿有りや、無きや。着想此に到れば、凛凛として自ら惕る。吾が心は即ち天なり。
-
言志四録・言志録 第九十七条 心の来処は太虚目を挙ぐれば百物、皆来処有り。軀殻の父母より出づるも、亦来処なり。心に至りては則ち来処何くに在る。余曰く、軀殻は是れ地気の精英、父母に由りて之を聚む。心は則ち天なり。軀殻成りて天寓し、天寓して知覚生じ、天離れて知覚泯ぶ。心の来処は、乃ち太虚是れのみ。
-
『洗心洞箚記』卷下・第百一條小程子曰く、一人の心は、即ち天地の心なり。一物の理は、即ち万物の理なり。一日の運は、即ち一歳の運なり、と。吾姚江致良知の教を奉ずと雖も、二程子の説を以て徴と為すなり。而して伊川先生の此の語に於て、賜はる所甚だ少なからず。人如し能く心性を了すれば、則ち理と運も亦た心のみ、別物に非ざるなり。先生分別して之を説くは、童蒙の為のみ。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る