正法眼蔵随聞記 / 巻五
一日雜談の次でに示じて云く、人の心本より善惡なし、善惡は緣に隨て起る、喩へば人發心して山林に入る時は、林下はよし人間は惡しとおほゆ、亦退屈の心にて山林を出る時は、山林は惡しとおぼゆ、是れ卽ち決定して心に定相なし、緣に隨て兎も角もなるなり、かるが故に善緣にあへば心よくなり、惡緣に近づけば心惡くなるなり、我が心本より惡しと思ふことなかれ、只善緣に隨ふへきなり、
新字:一日雑談の次でに示じて云く、人の心本より善悪なし、善悪は縁に随て起る、喩へば人発心して山林に入る時は、林下はよし人間は悪しとおほゆ、亦退屈の心にて山林を出る時は、山林は悪しとおぼゆ、是れ即ち決定して心に定相なし、縁に随て兎も角もなるなり、かるが故に善縁にあへば心よくなり、悪縁に近づけば心悪くなるなり、我が心本より悪しと思ふことなかれ、只善縁に随ふへきなり、
書き下し
一日雑談の次でに示じて云く、人の心本より善悪なし、善悪は縁に随て起る、喩へば人発心して山林に入る時は、林下はよし人間は悪しとおほゆ、亦退屈の心にて山林を出る時は、山林は悪しとおぼゆ、是れ即ち決定して心に定相なし、縁に随て兎も角もなるなり、かるが故に善縁にあへば心よくなり、悪縁に近づけば心悪くなるなり、我が心本より悪しと思ふことなかれ、只善縁に随ふへきなり、
現代語訳
ある日、雑談のついでに示して言われた。人の心はもとより善悪はない。善悪は縁に随って起こる。たとえば人が発心して山林に入る時は、林の下はよく、人の世は悪いと思われる。また退屈した心で山林を出る時は、山林は悪いと思われる。これはすなわち、決まって心に定まった相がないのである。縁に随ってどうにでもなるのである。それゆえ善い縁に逢えば心もよくなり、悪い縁に近づけば心も悪くなるのである。自分の心はもとより悪いと思ってはならない。ただ善い縁に随うべきである。
解説
同じ山林が、入る時にはよく、出る時には悪く見えるという例が的確である。善悪が対象ではなく縁によって現れることを示し、そこから、自分は生まれつき悪い心だと思うなという励ましに繋げる。心を直そうとするのではなく、縁を選べという、実行しやすい結論になっている。
この章句が説くこと
縁善悪心発心環境退屈
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