正法眼蔵随聞記 / 巻五
人の心はかくのごとし、一定此の言ば我爲によしと思へども、名聞にさへられてそれに順はざるもあり、亦一定我爲にあしき事と思ひながらも、名聞の爲なれば先づ隨ふ人もあり、惡にも善にも隨ふときは、心は善惡につるゝなり、故にいかにもとより惡き心なりとも、善知識に隨ひ、良人に馴るれば、自然に心もよくなるなり、惡人に近づけば我心にも初は惡しと思へども、終にその人のこゝろに隨ひ馴るほどに、おぼえずやがて實に惡く成るなり、
新字:人の心はかくのごとし、一定此の言ば我為によしと思へども、名聞にさへられてそれに順はざるもあり、亦一定我為にあしき事と思ひながらも、名聞の為なれば先づ随ふ人もあり、悪にも善にも随ふときは、心は善悪につるゝなり、故にいかにもとより悪き心なりとも、善知識に随ひ、良人に馴るれば、自然に心もよくなるなり、悪人に近づけば我心にも初は悪しと思へども、終にその人のこゝろに随ひ馴るほどに、おぼえずやがて実に悪く成るなり、
書き下し
人の心はかくのごとし、一定此の言ば我為によしと思へども、名聞にさへられてそれに順はざるもあり、亦一定我為にあしき事と思ひながらも、名聞の為なれば先づ随ふ人もあり、悪にも善にも随ふときは、心は善悪につるゝなり、故にいかにもとより悪き心なりとも、善知識に随ひ、良人に馴るれば、自然に心もよくなるなり、悪人に近づけば我心にも初は悪しと思へども、終にその人のこゝろに随ひ馴るほどに、おぼえずやがて実に悪く成るなり、
現代語訳
人の心はこのようである。確かにこの言葉は自分のためによいと思っても、名聞に妨げられてそれに順じない者もある。また確かに自分のために悪いことと思いながらも、名聞のためであるならば、まず随う人もある。悪にも善にも随う時は、心は善悪に連れられるのである。だから、どれほどもとより悪い心であっても、善知識に随い、良い人に馴染めば、自然に心もよくなるのである。悪い人に近づけば、自分の心にも初めは悪いと思っても、ついにその人の心に随い馴染むうちに、覚えないままにやがて本当に悪くなるのである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻一示して云く、人は思ひ切て命をも棄て、身肉手足をも截ことは中々せくるゝなり、然あれば世間の事を思ふに、名利執心の為にも多くかくの如く思ひ切るなり、只依り来る時に、事に触れ物に随て、心品を調ふること難きなり、学者身命を捨ると思ふて、且くおしゝづめて、云ふべきことをも、修すべきことをも、道理に順ずるか順せざるかと案じて、道理に順せば云ひ、若くは行じもすべきなり、
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