正法眼蔵随聞記 / 巻五
われ昔日我が朋輩の中に我見を執して、知識をとふらひける者ありき、我が心に違するをば心得ずと云て、我見にあひかなふをば執して、一生空くすぎて、佛法を會せざりけり、我れそれを見て智發してしりぬ、學道は然あるべからずと、かく思ひて師の言ばに隨て、全く道理を得て、其後看經の次でに、或る經に云く、佛法を學せんと思はゞ、三世の心を相續することなかれと、誠に知ぬさきの諸念舊見を記持せすして、次第にあらためゆくべきなりと云ことを、書に云く、忠言逆耳、いふこゝろは、我爲に忠有べきことばは必す耳に違するなり、違するとも强ひて隨ひ行せは、畢竟して益有べきなり、
新字:われ昔日我が朋輩の中に我見を執して、知識をとふらひける者ありき、我が心に違するをば心得ずと云て、我見にあひかなふをば執して、一生空くすぎて、仏法を会せざりけり、我れそれを見て智発してしりぬ、学道は然あるべからずと、かく思ひて師の言ばに随て、全く道理を得て、其後看経の次でに、或る経に云く、仏法を学せんと思はゞ、三世の心を相続することなかれと、誠に知ぬさきの諸念旧見を記持せすして、次第にあらためゆくべきなりと云ことを、書に云く、忠言逆耳、いふこゝろは、我為に忠有べきことばは必す耳に違するなり、違するとも强ひて随ひ行せは、畢竟して益有べきなり、
書き下し
われ昔日我が朋輩の中に我見を執して、知識をとふらひける者ありき、我が心に違するをば心得ずと云て、我見にあひかなふをば執して、一生空くすぎて、仏法を会せざりけり、我れそれを見て智発してしりぬ、学道は然あるべからずと、かく思ひて師の言ばに随て、全く道理を得て、其後看経の次でに、或る経に云く、仏法を学せんと思はゞ、三世の心を相続することなかれと、誠に知ぬさきの諸念旧見を記持せすして、次第にあらためゆくべきなりと云ことを、書に云く、忠言逆耳、いふこゝろは、我為に忠有べきことばは必す耳に違するなり、違するとも强ひて随ひ行せは、畢竟して益有べきなり、
現代語訳
わたしは昔、自分の仲間の中に、我見に執着して善知識を訪ねた者があった。自分の心に違うものは心得ないと言って、我見に合うものを執着して、一生を空しく過ごして、仏法を会得しなかった。わたしはそれを見て、はっと知った。学道はそうであってはならないと。こう思って師の言葉に随い、まったく道理を得て、その後、経を見るついでに、ある経に言った、仏法を学ぼうと思うならば、三世の心を相続してはならない、と。まことに知った、先の諸々の念や古い見方を記憶し保たずに、次第に改めていくべきなのだということを。書に言う、忠言は耳に逆らう、と。言う心は、自分のために忠であるはずの言葉は、必ず耳に逆らうのである。逆らっても強いて随って行ずるならば、つまるところ益があるはずである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻五世間の人も他にまじはらず、己れが家ばかりにて生長したる人は、心のまゝにふるまひ、己が心を先として、人目をしらす、人の心を兼ざる人は、必ずしもあしきなり、学道の用心も亦かくのことし、衆にまじはり師に順して、我見を立せす、心をあらためゆけば、たやすく道者となるなり、学道は先づすべからく貧を学すべし、名をすて利をすて、一切諂らふことなく、万事なげすつれば必ずよき道人となるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五一日示して云く、世間の人多く云ふ、某し師の言ばを聞けども我が心に叶はずと、此の言は非なり、知らず其のこゝろいかん、若しは聖教等の道理の、我が心に違背して非なりと思ふか、これは一向の凡愚なり、亦は師の云へる言が我が心に契はざるか、若し然あらばなんぞはじめより師に問ふや、亦日来の情見を以て云か、もししかあらば是れは無始よりこのかたの妄念なり、学道の用心と云ふは、我が心にたがへども、師の言は聖教の言理ならば、全く其に随て本の我見をすてゝあらためゆくべし、此の心が学道第一の故実なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四一日参学の次てに示して云く、学道の人は自解を執することなかれ、設ひ会する所ろありとも、若し亦決定よからざる事もやあらん、亦是よりもよき義もやあらんと思ふて、広く知識をも訪ひ、先人の言をも尋ぬべきなり、亦先人の言なりともかたく執する事なかれ、若し是もあしくもやあるらん、信ずるにつけてもと思て、次第にすぐれたる事あらば、其れにつくべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二我れ幼少の時外典等を好み学しき、夫れがのち入宋伝法するまでも、内外の書籍を開き、方語を通ずるまでも、大切の用事、亦世間のためにも尋常ならざる事なり、俗なんども尋常事に思ひたる、かたかたの用事にてありけれども、今ま熟ら思ふに、学道のさはりにてあるなり、只聖教を見るとも、文に見ゆる所の理を次第に心得てゆかば其の道理を得つべきなり、然るに先つ文章を見、対句韻声なんどを見て、よきぞあしきぞと心に思ふて、後に理をば心得るなり、然あれば、中々知らすして、初めより道理を心得て行かばよかるべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四我れ始てまさに無常によりて、聊か道心を発し、終に山門を辞して遍く諸方を訪ひ、道を修せしに、建仁寺に寓せし中間、正師にあはず、善友なき故に、迷て邪念を起しき、教道の師も先つ学問先達にひとしくして、よき人と成り、国家にしられ、天下に名誉せん事を教訓する故に、教法等を学するにも、先つ此の国の上古の賢者にひとしからんことを思ひ、大師等にも同じからんと思ひき、因に高僧伝、続高僧伝等を披見して、大唐の高僧、仏法者の様子を見しに、今の師のをしへの如くにはあらず、亦我が起せるやうなる心は、皆経論伝記等にはいとひにくみけりと思ひしより、
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、学道は須く吾我を離るべし、設ひ千経万論を学ひ得たりとも、我執を離れずんば終に魔坑に落つべし、古人の云く、若し仏法の身心なくんば、いづくんぞ仏となり祖と成らんと云云、我を離るゝと云ふは、我が身心を仏法の大海に抛向して、苦しく愁ふるとも、仏法に随て修行するなり、若し乞食をせば人是をわるし、みにくしと思はんずるなれど、かくのごとく思ふ間だは、いかにしても仏法に入得ざるなり、世の情見をすべて忘れて、唯道理に任せて学道すべし、我身の器量を顧み、仏法に契ふまじなんど思ふも、我執を持たる故なり、人目を顧み、人情を憚かるは、即ち我執の本なり、只仏法を学すべし、世情に随ふことなかれ、