正法眼蔵随聞記 / 巻五
示して云く、利他の行も自利の行も、たゞ劣なる方を捨てゝ勝なる方をとらば、大士の善行なるべし、老病を扶けんとて水菽の孝をいたすは、只今生暫時の妄愛、迷情の喜びばかりなり、迷情の有爲に背きて無爲の道を學せんは、設ひ遺恨は蒙ることありとも、出世の勝緣と成べし、是を思へ是を思へ、
新字:示して云く、利他の行も自利の行も、たゞ劣なる方を捨てゝ勝なる方をとらば、大士の善行なるべし、老病を扶けんとて水菽の孝をいたすは、只今生暫時の妄愛、迷情の喜びばかりなり、迷情の有為に背きて無為の道を学せんは、設ひ遺恨は蒙ることありとも、出世の勝縁と成べし、是を思へ是を思へ、
書き下し
示して云く、利他の行も自利の行も、たゞ劣なる方を捨てゝ勝なる方をとらば、大士の善行なるべし、老病を扶けんとて水菽の孝をいたすは、只今生暫時の妄愛、迷情の喜びばかりなり、迷情の有為に背きて無為の道を学せんは、設ひ遺恨は蒙ることありとも、出世の勝縁と成べし、是を思へ是を思へ、
現代語訳
示して言われた。利他の行も自利の行も、ただ劣ったほうを捨てて勝れたほうを取るならば、それが大士の善行であろう。老病を助けようとして水と豆の孝を尽くすのは、ただ今生の一時の妄執の愛、迷いの情の喜びばかりである。迷いの情である有為に背いて、無為の道を学ぶならば、たとえ遺恨は蒙ることがあっても、世を出る勝れた縁となるであろう。これを思え、これを思え。
解説
利他か自利かという枠組みそのものを外し、劣ったほうを捨てて勝れたほうを取るという一つの基準に置き換える。水菽の孝は貧しい中での親孝行を指す言葉で、それを一時の喜びと切る言い方は厳しい。恨まれることを織り込んだうえで選べという結論で、これを思えの繰り返しが余韻を残す。
この章句が説くこと
利他自利取捨孝有為無為
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