説苑 / 雜言
孔子曰:「夫富而能富人者,欲貧而不可得也;貴而能貴人者,欲賤而不可得也;達而能達人者,欲窮而不可得也。」
書き下し
孔子曰く、「夫れ富みて能く人を富ます者は、貧しからんと欲すとも得可からざるなり。貴くして能く人を貴くする者は、賤しからんと欲すとも得可からざるなり。達して能く人を達せしむる者は、窮せんと欲すとも得可からざるなり」と。
現代語訳
孔子は言った。「そもそも自分が富んでいて、なおかつ他人をも富ませることができる者は、たとえ自ら貧しくなろうと望んでも、貧しくなることはできない。自分が高い地位にありながら、なおかつ他人をも高い地位に就かせることができる者は、たとえ自ら卑しくなろうと望んでも、卑しくなることはできない。自分が栄達しながら、なおかつ他人をも栄達させることができる者は、たとえ自ら困窮しようと望んでも、困窮することはできない」と。
解説
自分の富や地位や栄達を独り占めせず、それを他人にも分け与え広げることができる者は、その恩恵の連鎖ゆえに、たとえ自ら望んでも没落することがないという逆説を孔子は説く。現代の経営やリーダーシップにおいても、自分だけが利益を独占する組織や人物は孤立し脆く、一方で成果や機会を惜しみなく周囲と分かち合う人物は、多くの支持と信頼のネットワークによって安泰であり続ける。この章の教訓は、自分の地位や富を守ろうとするなら、それを囲い込むのではなく、他者と分かち合い広げることこそが、結果的に自分自身の安泰を最も確実に守る道だということである。
この章句が説くこと
分かち合い持続的な繁栄利他
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葉隠・聞書第十一臨山法語(りんざんほうご)。少年より一つの疑(うたがい)起りて候ひし。抑〻(そもそも)此の身を成敗して、誰と問はば我と答ふる物は是(これ)何物ぞと、一念疑ひ初(はじめ)よりして、年の重なる儘(まま)に、疑深くなるによりて、出家せんと思立ち候ひし時、一つの大願力(だいがんりき)起りて候ひし。迚(とて)も出家するとならば、獨(ひと)り一身の爲に道を求めじ、諸佛の大法を悟りて、一切衆生を度(ど)し盡くして後に正覺(しょうがく)を成ずべし。又若し此の疑を明(あき)めざらん中に、佛法を學せじ。又僧家の禮を學せじ、人間に交らば善智識(ぜんちしき)の下に、下山とより外に身を置かじとなり。出家の後殊も深うなるに隨(したが)ひて、此の願も深く起りて候ひしは、前佛已(すで)に涅槃し、後佛末世に出で給はざる中間(ちゅうげん)に、佛法の絶えん時に於て、無法世界の衆生を度せんに、障(さわり)なき程の大道心を起さばや。縱令(たとい)此の愛に於て、無間(むけん)地獄に墜つるとも、衆生の苦に一つに代り得ば、少しも退屈する事なくして、生々世々(しょうじょうせせ)未來際(みらいざい)を盡くすまで、此の願を失はじ。又修行に於て、生死相見(しょうじそうけん)に滯(とどこお)らじ。又自ら其の力到らざらんに、人の利益(りやく)して人の眼を潰さじと、此の願心の僻(ひがみ)となりて、工夫の障と成り候ひしかども、已(や)む事を得ずして、諸佛に對しても、常々此の願を達して候ひしほどに、一切の善惡の緣に對する時も、唯此の願を行じ、諸天の眼を友として、今に至り申し候なり。奉公人の大願も斯(か)くの如くなるべし。
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