正法眼蔵随聞記 / 巻一
只其の時に望んで能々思量して、眼前の人の爲に一分の利益となるべき事をば人のあしく思はんことをも顧みず、なすべきなり、此のこと非分なり、わるしとて、疎みもし中をもたがはんも、かくの如くの不覺の知音、中たがはん事何か苦るしかるべき、外には非分の僻事をすると人には見ゆるとも、內には我執を破り、名聞を捨つる第一の用心なり、
新字:只其の時に望んで能々思量して、眼前の人の為に一分の利益となるべき事をば人のあしく思はんことをも顧みず、なすべきなり、此のこと非分なり、わるしとて、疎みもし中をもたがはんも、かくの如くの不覚の知音、中たがはん事何か苦るしかるべき、外には非分の僻事をすると人には見ゆるとも、内には我執を破り、名聞を捨つる第一の用心なり、
書き下し
只其の時に望んで能々思量して、眼前の人の為に一分の利益となるべき事をば人のあしく思はんことをも顧みず、なすべきなり、此のこと非分なり、わるしとて、疎みもし中をもたがはんも、かくの如くの不覚の知音、中たがはん事何か苦るしかるべき、外には非分の僻事をすると人には見ゆるとも、内には我執を破り、名聞を捨つる第一の用心なり、
現代語訳
ただ、そのときに臨んでよくよく思量して、目の前の人のために一分の利益となるはずのことを、人が悪く思うであろうことをも顧みずに、なすべきである。このことは分に過ぎている、悪いことだといって、疎まれもし、仲たがいすることになっても、そのような分別のない知り合いと仲たがいすることが、何の苦しいことがあろうか。外には分に過ぎた僻事をしていると人には見えても、内には我執を破り、名聞を捨てる第一の用心なのである。
解説
評判を落とすことが、そのまま我執を破る修行になるという逆転がここにある。人助けの勧めであると同時に、名聞を捨てる稽古としての位置づけが与えられている。分別のない知り合いなら離れてもかまわないと言い切る一句が強い。外から見える正しさと、内で起きていることが食い違ってよいという構えが示されている。
この章句が説くこと
我執名聞利他評判用心依頼
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