正法眼蔵随聞記 / 巻五
示して云く、出家人は必ず人の施を受て喜ぶことなかれ、亦受ざることなかれ、故僧正の云く、人の供養を得て喜ぶは佛制にたがふ、喜ばざるは檀越の心にたがふ、此の故實用心は、我に供養するに非ず、三寶に供養するなり、かるがゆへに彼の返事には、此の供養は三寶定て納受有るべしと言ふべきなり、
新字:示して云く、出家人は必ず人の施を受て喜ぶことなかれ、亦受ざることなかれ、故僧正の云く、人の供養を得て喜ぶは仏制にたがふ、喜ばざるは檀越の心にたがふ、此の故実用心は、我に供養するに非ず、三宝に供養するなり、かるがゆへに彼の返事には、此の供養は三宝定て納受有るべしと言ふべきなり、
書き下し
示して云く、出家人は必ず人の施を受て喜ぶことなかれ、亦受ざることなかれ、故僧正の云く、人の供養を得て喜ぶは仏制にたがふ、喜ばざるは檀越の心にたがふ、此の故実用心は、我に供養するに非ず、三宝に供養するなり、かるがゆへに彼の返事には、此の供養は三宝定て納受有るべしと言ふべきなり、
現代語訳
示して言われた。出家の人は、必ず人の施しを受けて喜んではならない。また受けないのでもない。故僧正が言われた。人の供養を得て喜ぶのは仏の制に違う。喜ばないのは檀越の心に違う、と。この心得は、自分に供養するのではなく、三宝に供養するのである。それゆえ、その返事には、この供養は三宝が必ず納め受けられるでしょうと言うべきである。
解説
喜んでも喜ばなくても外れるという板挟みに、受け取り先を移すことで答えを出す。自分にではなく三宝にという読み替えで、施す側の心にも背かず、受ける側の慢心も避けられる。返事の言い方まで具体的に示されており、実際の場面で使える形になっている。
この章句が説くこと
布施供養三宝檀越受け取り慢心
関連する章句
-
『正法眼蔵随聞記』巻四古人云く、奢て上賢にひとしからんと思ふことなかれ、賤ふして下賤にひとしからんと思ふことなかれと、云こゝろは、共に慢心なり、高ふしても下らんことを忘るゝことなかれ、安ふしても危からんことを忘るゝことなかれ、今日存するとも明日もと思ふことなかれ、死の至てちかくあやふきこと脚下にあり、
-
『正法眼蔵随聞記』巻四示して云はく、愚癡なる人は其の詮なきことを思ひ云ふなり、此につかはるゝ老尼公ありけるが、当時いやしげに在るをはづる顏にて、ともすれば人に向ては、昔しは上臘にてありしよしを語る、たとひ而今の人にさもありと思はれたりとも、なんの用とも覚えぬ、甚だ無用なりとおぼゆるなり、皆人の思はくは此の心あるかと覚ゆるなり、道心の無きほども知られたり、是れらの心を改めて、少し人には似るべきなり、亦有る入道の、極めて無道心なるあり、去り難き知音にてある故に、道心おこらんこと仏神に祈誓せよと云はんと思ふ、定て彼れ腹立して中をたがふことあらん、然あれども道心を発さヾらんには得意にてもたがひに詮なかるべし、
-
尚書・周官寵に居りて危うきを思い、畏れざる罔く、畏れざれば畏るるに入る。
-
徒然草・第167段一道に携はる人、あらぬ道の席に臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に争ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干の科あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にもいひけたれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物に誇ることなし。
-
尚書・西伯戡黎我が生、命は天に在るに非ずや。
-
葉隠・聞書第一順境には自慢と奢りがあぶなきなり。その時は、日頃の倍(ばい)慎まねば、追ひ付かざるなり。よき時進む者は、悪しき時草臥(くたび)るるものなり。