正法眼蔵随聞記 / 巻五
答て云く、無智の有道心は終に退すること多し、智慧ある人は無道心なれども、終には道心を起すなり、當世も現證是れ多し、然あれば先づ道心の有無を云はず、學道を勤むべきなり、道を學せば只た貧なるべし、內外の書籍を見るに、貧ふして居所もなく、或は滄浪の水に浮び、或は首陽の山にかくれ、或は樹下露地に端坐し、或は塚間深山に卓菴する人もあり、亦富貴にして財多く、朱漆をぬり、金玉をみがきて、宮殿等を造るもあり、倶に典籍にのせたり、然といへども、後代をすゝむるには、皆貧にして財なきを以て本とす、訓りて罪業を誠むるには、富て財多きを驕奢の者と云て誹れるなり、
新字:答て云く、無智の有道心は終に退すること多し、智慧ある人は無道心なれども、終には道心を起すなり、当世も現證是れ多し、然あれば先づ道心の有無を云はず、学道を勤むべきなり、道を学せば只た貧なるべし、内外の書籍を見るに、貧ふして居所もなく、或は滄浪の水に浮び、或は首陽の山にかくれ、或は樹下露地に端坐し、或は塚間深山に卓菴する人もあり、亦富貴にして財多く、朱漆をぬり、金玉をみがきて、宮殿等を造るもあり、倶に典籍にのせたり、然といへども、後代をすゝむるには、皆貧にして財なきを以て本とす、訓りて罪業を誠むるには、富て財多きを驕奢の者と云て誹れるなり、
書き下し
答て云く、無智の有道心は終に退すること多し、智慧ある人は無道心なれども、終には道心を起すなり、当世も現證是れ多し、然あれば先づ道心の有無を云はず、学道を勤むべきなり、道を学せば只た貧なるべし、内外の書籍を見るに、貧ふして居所もなく、或は滄浪の水に浮び、或は首陽の山にかくれ、或は樹下露地に端坐し、或は塚間深山に卓菴する人もあり、亦富貴にして財多く、朱漆をぬり、金玉をみがきて、宮殿等を造るもあり、倶に典籍にのせたり、然といへども、後代をすゝむるには、皆貧にして財なきを以て本とす、訓りて罪業を誠むるには、富て財多きを驕奢の者と云て誹れるなり、
現代語訳
答えて言われた。智慧なくして道心のある者は、ついに退くことが多い。智慧のある人は道心がなくとも、ついには道心を起こすのである。当世にも目の前の証しがこれは多い。であるから、まず道心の有無を言わず、学道を勤めるべきである。道を学ぶならば、ただ貧しくあるべきである。内外の書籍を見るに、貧しくて住む所もなく、あるいは滄浪の水に浮かび、あるいは首陽の山に隠れ、あるいは樹の下、露の地に端坐し、あるいは塚の間や深い山に庵を構える人もある。また富貴で財が多く、朱の漆を塗り、金玉を磨いて宮殿などを造る者もある。ともに書物に載っている。しかしながら、後の代を勧めるには、みな貧しくて財のないことを本とする。教え諭して罪業を戒めるには、富んで財の多いことを驕り奢る者と言ってそしっているのである。
解説
この章句が説くこと
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論語・憲問篇子曰く、「君子の道なる者三つ、我能くすること無し。仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。」子貢曰く、「夫子自ら道うなり。」
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『仏遺教経』智慧汝等比丘、若し智慧有らば、則ち貪著無し。常に自ら省察して、失有らしめざれ。是れ則ち我が法の中に於て、能く解脱を得ん。若し爾らずんば、既に道人に非ず、又た白衣に非ず、名づくる所無きなり。実の智慧は、則ち是れ老病死の海を度る堅牢の船なり。亦た是れ無明黒暗の大明灯なり。一切の病者の良薬なり。煩悩の樹を伐る利斧なり。是の故に汝等、当に聞思修慧を以て自ら増益すべし。若し人、智慧の照有らば、天眼無しと雖も、是れ明見の人なり。是を智慧と名づく。
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論語・子罕篇子曰わく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。
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論語・学而篇子貢曰く、「貧しくして諂うこと無く、富みて驕ること無きは如何。」子曰く、「可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若かざるなり。」子貢曰く、「詩に云う、『切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し』と。其れ斯を之謂うか。」子曰く、「賜や、始めて与に詩を言う可きのみ。諸に往を告げて来を知る者なり。」
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『正法眼蔵随聞記』巻三夜話に云く、学道の人は最も貧なるべし、世人を見るに、財ある人はまづ嗔恚耻辱の二つの難定めて来るなり、宝あれば人是を奪ひ取らんと思ふ、我は取られじとする時、嗔恚たちまちに起る、或は是を論じて問答対決に及び、つゐには闘争合戦をいたす、かくの如くのあひだに嗔恚も起り、恥辱も来るなり、貧にして貪ぼらざる時は、先づ此の難を免れて安楽自在なり、證拠眼前なり、教文を待べからず、爾のみならず、古聖先賢是を謗り、諸天仏祖皆な是を恥かしむ、然あるに愚癡なる人は財宝を貯へ、そこばくの嗔恚をいだくこと、恥辱の中の恥辱なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻三貧ふして道を思ふは先賢古聖の仰ぐ所、諸仏諸祖の喜ぶ所ろなり、近来仏法の衰微しゆくこと眼前にあり、余始て建仁寺に入りし時見しと、後七八年過て見しと、次第にかはりゆくことは、寺の寮寮に塗籠をおき、各各器物を持し、美服を好み、財物を貯へ、放逸の言語を好み、問訊礼拝等の衰微することを以て思ふに、余所も推察せらるゝなり、仏法者は衣盂の外に財宝等を一切持べからず、なにを置んが為に塗籠をしつらふべきぞ、