正法眼蔵随聞記 / 巻五
示して云く、學道の人は、吾我の爲に佛法を學することなかれ、只佛法の爲に佛法を學すべきなり、其の故實は、我が身心を一物ものこさず放下して、佛法の大海に廻向すべきなり、其の後は一切の是非管することなく、我か心を存することなく、なし難く忍び難きことなりとも、佛法の爲につかはれて、しひて此れをなすべし、我が心に强てなしたきことなりとも、佛法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり、穴賢、佛道修行の功を以て、かはりに善果を得んと思ふことなかれ、只一度佛道に廻向しつる上は、再ひ自己をかへりみず、佛法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存することなかれ、先證皆かくの如し、心にねがひ求ることなければ卽ち大安樂なり、
新字:示して云く、学道の人は、吾我の為に仏法を学することなかれ、只仏法の為に仏法を学すべきなり、其の故実は、我が身心を一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり、其の後は一切の是非管することなく、我か心を存することなく、なし難く忍び難きことなりとも、仏法の為につかはれて、しひて此れをなすべし、我が心に强てなしたきことなりとも、仏法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり、穴賢、仏道修行の功を以て、かはりに善果を得んと思ふことなかれ、只一度仏道に廻向しつる上は、再ひ自己をかへりみず、仏法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存することなかれ、先證皆かくの如し、心にねがひ求ることなければ即ち大安楽なり、
書き下し
示して云く、学道の人は、吾我の為に仏法を学することなかれ、只仏法の為に仏法を学すべきなり、其の故実は、我が身心を一物ものこさず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり、其の後は一切の是非管することなく、我か心を存することなく、なし難く忍び難きことなりとも、仏法の為につかはれて、しひて此れをなすべし、我が心に强てなしたきことなりとも、仏法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり、穴賢、仏道修行の功を以て、かはりに善果を得んと思ふことなかれ、只一度仏道に廻向しつる上は、再ひ自己をかへりみず、仏法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存することなかれ、先證皆かくの如し、心にねがひ求ることなければ即ち大安楽なり、
現代語訳
示して言われた。学道の人は、我のために仏法を学んではならない。ただ仏法のために仏法を学ぶべきである。その心得は、自分の身心を一物も残さず放り捨てて、仏法の大海に廻向すべきである。その後は一切の是非に関わることなく、自分の心を持つことなく、なしがたく忍びがたいことであっても、仏法のために使われて、しいてこれをなすべきである。自分の心で強いてしたいことであっても、仏法の道理であるはずでない事は放り捨てるべきである。あなかしこ、仏道修行の功をもって、代わりに善い果を得ようと思ってはならない。ただ一度仏道に廻向した上は、再び自己を顧みず、仏法の掟に任せて行っていって、自分勝手な曲がった計らいを持ってはならない。先の証しはみなこのようである。心に願い求めることがなければ、すなわち大いなる安楽である。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、学道は須く吾我を離るべし、設ひ千経万論を学ひ得たりとも、我執を離れずんば終に魔坑に落つべし、古人の云く、若し仏法の身心なくんば、いづくんぞ仏となり祖と成らんと云云、我を離るゝと云ふは、我が身心を仏法の大海に抛向して、苦しく愁ふるとも、仏法に随て修行するなり、若し乞食をせば人是をわるし、みにくしと思はんずるなれど、かくのごとく思ふ間だは、いかにしても仏法に入得ざるなり、世の情見をすべて忘れて、唯道理に任せて学道すべし、我身の器量を顧み、仏法に契ふまじなんど思ふも、我執を持たる故なり、人目を顧み、人情を憚かるは、即ち我執の本なり、只仏法を学すべし、世情に随ふことなかれ、
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『正法眼蔵随聞記』巻五大慧禅師の云く、学道は須く人の千万貫の銭を債ひけるが、一文をも持たざるに乞責らるゝ時の心の如くすべし、若しこの心あれば、道を得ることやすしといへり、信心銘に云く、至道かたきことなし、唯だ揀択を嫌ふと、揀択の心だに放下しぬれば、直下に承当するなり、揀択の心を放下すると云は、我をはなるゝなり、仏道を行じて、代りに利益を得ん為に仏法を学すと思ふことなかれ、只仏法の為に仏法を修行すべきなり、縦ひ千経万論を学し得て、坐禅の床を坐破するとも、此の心なくんば、仏祖の道を得べからず、只すべからく身心を放下して、仏法の中に置て、他に随ひて旧見なければ、即ち直下に承当するなり、示して云く、
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『正法眼蔵随聞記』巻二因に問て云く、学人若し自己これ仏法なり、外に向て求むべからずとききて、深く此の言を信じて、向来の修行参学を放下して、本性に任せて善悪の業をなして、一期を過さん、此の見解いかん、示して云く、此の見解、言と理と相違せり、外に向て求むべからずと云て、行を捨て学を放下せば、此の放下の行を以て所求ありときこへたり、これ覓めざるにはあらず、只行学もとより仏法なりと證して、無所求にして、世事悪業等は我が心になしたくともなさず、学道修行の懶うきをもいとひかへりみず、此行を以て打成一片に修して、道成するも、果を得るも、我が心より求ることなふして行ずるをこそ、外に向て覓むることなかれと云ふ道理にはかなふべけれ、
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『正法眼蔵随聞記』巻五況や衲子の仏道を存するも、二た心無き時まことに仏道に契ふべし、仏道には慈悲智慧本よりそなはる人もあり、設ひ無き人も学すれば得るなり、只身心を倶に放下して、仏法の大海に廻向して、仏法の教に任せて私曲を存ずることなかれ、
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『正法眼蔵随聞記』巻二然あれば仏法の学人も、世を離れ家を出ればとて、徒らに身を安すんぜんと思ふこと片時もあるべからず、初めは利あるに似たれども、後には大いに害あるなり、出家の作法に順て全く其の職を治め、其業を修すべきなり、世間の治世は先規有道をかんがへ求れども、先聖先達のたしかに相伝したる例なければ、自ら其の時の例に随ふこともあれども、仏子はたしかなる先規教文顕然なり、亦相承伝来の知識現在せり、我れに思量あり、四威儀の中において一一に先規を思ひ、先達に随ひ修行せんに、なじかは道を得ざるべき、俗は天意に合はんと思ひ、衲子は仏意に合はんと思ふ、修業ひとしくして、得果すぐれたれば、一得永得ならん、かくの如く大安業の為めに、一世幻化の此身を苦しめて仏意に随んは、唯行者の心にあるべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻一示して云く無常迅速なり、生死事大なり、且く存命の際た、業を修し学を好ます、只仏道を行じ仏法を学すべきなり、文筆詩歌等其の詮なき事なれば、捨べき道理なり、仏法を学し、仏道を修するにも猶を多般を兼学すべからず、況や教家の顕密の聖教、一向にさしおくべきなり、仏祖の言語すら多般を好み学すべからず、一事を専らにせんすら、鈍根劣器の者はかなふべからす、況や多事を兼て、心操をとゝのへざらんは不可なり