正法眼蔵随聞記 / 巻五
況や衲子の佛道を存するも、二た心無き時まことに佛道に契ふべし、佛道には慈悲智慧本よりそなはる人もあり、設ひ無き人も學すれば得るなり、只身心を倶に放下して、佛法の大海に廻向して、佛法の教に任せて私曲を存ずることなかれ、
新字:況や衲子の仏道を存するも、二た心無き時まことに仏道に契ふべし、仏道には慈悲智慧本よりそなはる人もあり、設ひ無き人も学すれば得るなり、只身心を倶に放下して、仏法の大海に廻向して、仏法の教に任せて私曲を存ずることなかれ、
書き下し
況や衲子の仏道を存するも、二た心無き時まことに仏道に契ふべし、仏道には慈悲智慧本よりそなはる人もあり、設ひ無き人も学すれば得るなり、只身心を倶に放下して、仏法の大海に廻向して、仏法の教に任せて私曲を存ずることなかれ、
現代語訳
まして修行僧が仏道を保つのも、二心がない時にこそ、まことに仏道に契うはずである。仏道には慈悲と智慧がもとより具わっている人もあり、たとえ無い人も学べば得られるのである。ただ身心をともに放り捨てて、仏法の大海に廻向して、仏法の教えに任せて、自分勝手な曲がった計らいを持ってはならない。
解説
前段の母子の話を受けて、二心のなさを修行僧に求める。そのうえで、慈悲と智慧は生まれつき無くとも学べば得られると言い添える。素質の話を持ち出させない配慮であり、この書に繰り返し出てくる型である。身心を放下して大海に廻向するという表現が、二心のなさの具体的な形になっている。
この章句が説くこと
二心慈悲智慧放下廻向私曲
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