正法眼蔵随聞記 / 巻四
世間の人多分云く、學道のこゝろざしあれども、世は末世なり、人は下劣なり、如法の修行にはたゆべからず、只隨分にやすきにつきて結緣を思ひ、他生に開悟を期すべしと、今ま云ふ、此の言は全く非なり、佛教に正像末を立ること、暫く一途の方便なり、在世の比丘必すしも皆すぐれたるにあらず、不可思議に希有にあさましく下根なるもありき、故に佛、種々の戒法等をまうけ玉ふこと、皆わるき衆生下根の爲なり、
新字:世間の人多分云く、学道のこゝろざしあれども、世は末世なり、人は下劣なり、如法の修行にはたゆべからず、只随分にやすきにつきて結縁を思ひ、他生に開悟を期すべしと、今ま云ふ、此の言は全く非なり、仏教に正像末を立ること、暫く一途の方便なり、在世の比丘必すしも皆すぐれたるにあらず、不可思議に希有にあさましく下根なるもありき、故に仏、種々の戒法等をまうけ玉ふこと、皆わるき衆生下根の為なり、
書き下し
世間の人多分云く、学道のこゝろざしあれども、世は末世なり、人は下劣なり、如法の修行にはたゆべからず、只随分にやすきにつきて結縁を思ひ、他生に開悟を期すべしと、今ま云ふ、此の言は全く非なり、仏教に正像末を立ること、暫く一途の方便なり、在世の比丘必すしも皆すぐれたるにあらず、不可思議に希有にあさましく下根なるもありき、故に仏、種々の戒法等をまうけ玉ふこと、皆わるき衆生下根の為なり、
現代語訳
示して言われた。世間の人の多くは言う、道を学ぶ志はあるけれども、世は末世である、人は劣っている、法のとおりの修行には堪えられまい、ただ分に応じて易いほうについて縁を結ぶことを思い、他生に悟りを開くことを期そう、と。今言う、この言葉はまったく非である。仏の教えに正法・像法・末法を立てることは、しばらくの間の一つの方便である。在世の比丘も必ずしもみな勝れていたのではない。思いも寄らずまれに、情けないほど下根である者もあった。だから仏が種々の戒法などを設けられたことは、みな悪い衆生、下根の者のためである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻二亦ある人の云く、末世辺土の仏法興隆は、閑居静処をかまヘ、衣食等の外護にわづらひなく、衣食具足して仏法修行せば、利益も広かるべしと、今これを思ふに然らず、それに付ては有相著我の諸人あつまり学せんほどに、その中には一人も発心の人は出来るまじ、利養につき、財欲にふけりて、縦ひ千万人集りたらんも、一人無からんに猶おとるべし、悪道の業因のみ自ら積で、仏法の気分なきゆゑなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、或る人の云く、我は病者なり、非器なり、学道には堪へず、法門の最要を聞て、独住隠居して身をやしなひ、病をたすけて、一生を終へんと思ふと、これは太だ非なり、先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈に咸く皆上器ならんや、滅後を思へばいくばくならず、在世を考るに人々みな俊なるにあらず、善人もあり、悪人もあり、比丘衆の中に不可思議の悪行なるもあり、最下品の器量もあり、しかあれども卑下しやめりなんと称して道心をおこさず、非器なりと云て学道せざるはなし、今生に若し学道修行せずんば、何れの生にか器量の人となり、無病の者と成て学道せんや、只身命を顧りみず、発心修行するこそ、学道の最要なれ、
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『正法眼蔵随聞記』巻二此の土の仏法者、道心者を立る人の中にも、身をすつるとて、人はいかにも見よと思ひて、ゆへ無く身をわるくふるまひ、或は亦世を執せぬとて、雨にもぬれながら行きなんどするは、内外ともに無益なるを、世間の人はすなはち此らを貴き人かな、世を執せぬなんどゝ思へるなり、中に仏制を守りて、戒律の儀をも存じ、自行化他仏制にまかせて行ずるをば、かへりて名聞利養げなるとて、人も管せざるなり、夫れが却て吾がためには仏教にも随ひ、内外の徳も成ずるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二然あれば仏法の学人も、世を離れ家を出ればとて、徒らに身を安すんぜんと思ふこと片時もあるべからず、初めは利あるに似たれども、後には大いに害あるなり、出家の作法に順て全く其の職を治め、其業を修すべきなり、世間の治世は先規有道をかんがへ求れども、先聖先達のたしかに相伝したる例なければ、自ら其の時の例に随ふこともあれども、仏子はたしかなる先規教文顕然なり、亦相承伝来の知識現在せり、我れに思量あり、四威儀の中において一一に先規を思ひ、先達に随ひ修行せんに、なじかは道を得ざるべき、俗は天意に合はんと思ひ、衲子は仏意に合はんと思ふ、修業ひとしくして、得果すぐれたれば、一得永得ならん、かくの如く大安業の為めに、一世幻化の此身を苦しめて仏意に随んは、唯行者の心にあるべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻四いはんや出家人必ずしも此の心あるべし、出家人はもとより身に財宝なければ、智慧功徳を以てたからとす、他の無道心なる、ひがことなんどを直に面てにあらはして、非におとすべからず、方便を以て彼れのはらたつまじき様に云ふべきなり、暴悪なるは其の法久しからずと云ふ、設ひ法を以て呵噴するとも、あらき言葉なるは法も久しからざるなり、小人下器はいさゝかも人のあらき言ばに必ず即ちはらたち、恥辱を思ふなり、大人上器には似るべからず、大人はしかあらず設ひ打たるれども報を思はす、今我国には小人多し、つゝしまずんはあるべからざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一夜話に云く、世間の人も衆事を兼学して、れも能くせざらんよりは、只一事を能くして、人前にしても、しつべきほどに学すべきなり、況や出世の仏法は、無始より以来修習せざる法なり、故に今も疎し、我性も拙し、高広なる仏法に事の多般を兼ぬれば一事をも成すべからず、一事を専にせんすら、本性味劣の根器、今生に窮し難し、努めて学人一事を専らにすべし、