正法眼蔵随聞記 / 巻一
夜話に云く、世間の人も衆事を兼學して、れも能くせざらんよりは、只一事を能くして、人前にしても、しつべきほどに學すべきなり、況や出世の佛法は、無始より以來修習せざる法なり、故に今も踈し、我性も拙し、高廣なる佛法に事の多般を兼ぬれば一事をも成すべからず、一事を專にせんすら、本性味劣の根器、今生に窮し難し、努めて學人一事を專らにすべし、
新字:夜話に云く、世間の人も衆事を兼学して、れも能くせざらんよりは、只一事を能くして、人前にしても、しつべきほどに学すべきなり、況や出世の仏法は、無始より以来修習せざる法なり、故に今も疎し、我性も拙し、高広なる仏法に事の多般を兼ぬれば一事をも成すべからず、一事を専にせんすら、本性味劣の根器、今生に窮し難し、努めて学人一事を専らにすべし、
書き下し
夜話に云く、世間の人も衆事を兼学して、れも能くせざらんよりは、只一事を能くして、人前にしても、しつべきほどに学すべきなり、況や出世の仏法は、無始より以来修習せざる法なり、故に今も疎し、我性も拙し、高広なる仏法に事の多般を兼ぬれば一事をも成すべからず、一事を専にせんすら、本性味劣の根器、今生に窮し難し、努めて学人一事を専らにすべし、
現代語訳
夜話に言われた。世間の人も多くの事を兼ね学んで、どれもよくできないよりは、ただ一事をよくできるようにして、人前でも通用するほどに学ぶべきである。まして世を出た仏法は、はるかな昔から修め習ってこなかった法である。だから今もうとく、自分の性質も拙い。高く広い仏法に、事の多方面を兼ねるならば、一事をも成し遂げられない。一事を専らにすることさえ、生まれつき劣った器では今生に窮めがたい。努めて、学人は一事を専らにすべきである。
解説
一事を専らにせよという主張が、ここでは世間の道理から積み上げられている。どれも中途半端になるくらいなら一つを人前に出せるまで、というのは職人の理屈である。そのうえで仏法は、これまでの生涯で一度も習ってこなかった分だけ余計に不利だと言う。才の乏しさを認めたうえで、なお時間の配分だけは選べるという構えが取られている。
この章句が説くこと
一事専心器努力世間仏法
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