正法眼蔵随聞記 / 巻四
見すや竹の聲に道を悟り、桃の花に心を明らむ、竹豈に利鈍あり迷悟あらんや、花何ぞ淺深あり賢愚あらん、花は年年に開くれとも、人みな得悟するに非ず、竹は時時に響けども、聞く者盡く證道するにあらず、たヾ久參修持の功により、辨道勤勞の緣を得て、悟道明心するなり、是れ竹の聲の獨り利なるにあらず、亦花の色の殊に深きにあらず、
新字:見すや竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむ、竹豈に利鈍あり迷悟あらんや、花何ぞ浅深あり賢愚あらん、花は年年に開くれとも、人みな得悟するに非ず、竹は時時に響けども、聞く者尽く證道するにあらず、たヾ久参修持の功により、弁道勤労の縁を得て、悟道明心するなり、是れ竹の声の独り利なるにあらず、亦花の色の殊に深きにあらず、
書き下し
見すや竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむ、竹豈に利鈍あり迷悟あらんや、花何ぞ浅深あり賢愚あらん、花は年年に開くれとも、人みな得悟するに非ず、竹は時時に響けども、聞く者尽く證道するにあらず、たヾ久参修持の功により、弁道勤労の縁を得て、悟道明心するなり、是れ竹の声の独り利なるにあらず、亦花の色の殊に深きにあらず、
現代語訳
見ないか、竹の音に道を悟り、桃の花に心を明らめたことを。竹にどうして利鈍があり迷悟があろうか。花にどうして浅深があり賢愚があろうか。花は年々に開くけれども、人はみな悟りを得るのではない。竹は時々に響くけれども、聞く者がことごとく道を証するのではない。ただ久しく参じ修め持つ功により、道を弁え勤め労する縁を得て、道を悟り心を明らめるのである。これは竹の音が独り鋭いのではなく、また花の色がことに深いのでもない。
解説
香厳が竹に瓦の当たる音で悟り、霊雲が桃の花で悟ったという二つの故事を引く。しかし竹も花も毎年そこにあり、誰もが悟るわけではない。悟りの原因を対象の側に求めず、久しく修めてきた功のほうに置く見方で、機縁を待つ姿勢への静かな修正になっている。
この章句が説くこと
機縁久参悟道竹花功
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