正法眼蔵随聞記 / 巻二
此の如く道を求る志し切になりなば、或は只管打坐の時、或は古人の公案に向はん時、若くは知識に逢はん時、實の志しを以て行ずる時、高くとも射つべく、深しとも釣りぬべし、是れほどの心發らずして、佛道の一念に生死の輪廻をきる大事をば如何んが成ぜん、若し此の心あらん人は、下智劣根をも云はず、愚癡惡人をも論ぜず、必ず悟りを得べきなり、
新字:此の如く道を求る志し切になりなば、或は只管打坐の時、或は古人の公案に向はん時、若くは知識に逢はん時、実の志しを以て行ずる時、高くとも射つべく、深しとも釣りぬべし、是れほどの心発らずして、仏道の一念に生死の輪廻をきる大事をば如何んが成ぜん、若し此の心あらん人は、下智劣根をも云はず、愚癡悪人をも論ぜず、必ず悟りを得べきなり、
書き下し
此の如く道を求る志し切になりなば、或は只管打坐の時、或は古人の公案に向はん時、若くは知識に逢はん時、実の志しを以て行ずる時、高くとも射つべく、深しとも釣りぬべし、是れほどの心発らずして、仏道の一念に生死の輪廻をきる大事をば如何んが成ぜん、若し此の心あらん人は、下智劣根をも云はず、愚癡悪人をも論ぜず、必ず悟りを得べきなり、
現代語訳
このように道を求める志が切になったならば、あるいはひたすら坐る時、あるいは古人の公案に向かう時、もしくは善知識に逢う時、実の志をもって行ずる時には、高くとも射当てられ、深くとも釣り上げられるはずである。これほどの心が起こらずに、仏道の一念によって生死の輪廻を断ち切る大事を、どうして成し遂げられようか。もしこの心のある人は、智の低さも根の劣りをも言わず、愚かさや悪も論ぜず、必ず悟りを得るはずである。
解説
志が切であれば、坐禅も公案も参師も、どれも届く手段になるという。高くとも射当て、深くとも釣り上げるという二句が、志の強さが距離を超えることを言い表している。結びで、智の低さや愚かさや悪すら条件から外され、条件を問わないという主張が最も強い形で述べられている。
この章句が説くこと
志只管打坐公案善知識悟り輪廻
関連する章句
-
孟子・盡心章句上公孫丑曰く、「伊尹曰く、『予、不順に狎れしめず。』太甲を桐に放ち、民大いに悅ぶ。太甲賢となる。又之を反し、民大いに悅ぶ。賢者の人臣為るや、其の君、賢ならざれば、則ち固より放つ可きか。」孟子曰く、「伊尹の志有れば、則ち可なり。伊尹の志無ければ、則ち篡うなり。」
-
荀子・大略篇公行子之(こうこうしし)、燕(えん)に之(ゆ)き、曾元(そうげん)に塗(みち)に遇(あ)ひて曰く、「燕君(えんくん)は何如(いかん)」と。曾元曰く、「志(こころざし)卑(ひく)し。志卑き者は物を軽んじ、物を軽んずる者は助けを求めず。苟(いやしく)も助けを求めずんば、何ぞ能(よ)く挙(あ)がらん。氐羌(ていきょう)の虜(とりこ)たるや、其の係累(けいるい)せらるるを憂へずして、其の焚(や)かれざるを憂ふ。夫(か)の秋毫(しゅうごう)を利として、国家を害(そこな)ひ靡(ほろぼ)す、然も且(か)つ之を為す、幾(あ)に知計(ちけい)を為すと為さんや」と。
-
史記 伯夷列伝子曰く、「道同じからざれば相ひ為に謀らず」と。亦た各々其の志に従ふなり。故に曰く、「富貴もし求む可くんば、執鞭の士と雖も、吾も亦た之を為さん。如し求む可からずんば、吾が好む所に従はん」と。「歳寒くして、然る後に松柏の凋むに後るるを知る」。世を挙げて混濁して、清士乃ち見はる。豈に其の重んずること彼の若く、其の軽んずること此くの若くなるを以てせんや。
-
論語・里仁篇子曰わく、いやしくも仁に志せば、悪しきこと無し。
-
孟子・盡心章句下孟子曰く、「名を好むの人は、能く千乘の國を讓る。苟くも其の人に非ざれば、簞食豆羹も色に見わる。」
-
葉隠・聞書第一一度打向へば、最早(もはや)其の道に入りたるなり。名人も人なり、我も人なり、何しに劣るべきかと思ひて、一度志すところが即ち聖人なり。後(のち)に修行して聖人に成り給ふにはあらず。十有五にして学に志すとは、即ち聖人なり。初発心時(しょほっしんじ)辨成正覚(べんじょうしょうがく)ともこれあるなり。