正法眼蔵随聞記 / 巻四
古人云く、親近スレ「善者一如霧露中ニ行で、雖不濕衣時時ニ有潤、謂ふ心は、善人になるれは覺たざるに善人となるなり、昔し倶胝和尙に仕へし一人の童子のごときは、いつ學し、いつ修したりとも見えず、覺えざれども、久參に近つきたる故に悟道す、坐禪も自然に久くせば、忽然として大事を發明して、坐禪の正門なることを知るべきなり、嘉禎二年臘月除夜、
新字:古人云く、親近スレ「善者一如霧露中ニ行で、雖不湿衣時時ニ有潤、謂ふ心は、善人になるれは覚たざるに善人となるなり、昔し倶胝和尚に仕へし一人の童子のごときは、いつ学し、いつ修したりとも見えず、覚えざれども、久参に近つきたる故に悟道す、坐禅も自然に久くせば、忽然として大事を発明して、坐禅の正門なることを知るべきなり、嘉禎二年臘月除夜、
書き下し
古人云く、親近スレ「善者一如霧露中ニ行で、雖不湿衣時時ニ有潤、謂ふ心は、善人になるれは覚たざるに善人となるなり、昔し倶胝和尚に仕へし一人の童子のごときは、いつ学し、いつ修したりとも見えず、覚えざれども、久参に近つきたる故に悟道す、坐禅も自然に久くせば、忽然として大事を発明して、坐禅の正門なることを知るべきなり、嘉禎二年臘月除夜、
現代語訳
ある日示して言われた。古人は言った、善き者に親しく近づくのは、霧や露の中を行くようなもので、衣は濡れないけれども、時々に潤う、と。言う心は、善い人になれば、覚えないうちに善い人となるということである。昔、倶胝和尚に仕えた一人の童子のようなのは、いつ学びいつ修めたとも見えず、覚えもしないけれども、久しく参じたことに近づいたゆえに悟道した。坐禅も自然に久しく続けるならば、忽然として大事を明らかにして、坐禅が正しい門であることを知るはずである。
解説
善い人のそばにいることの効き目を、霧の中を歩く比喩で語る。濡れたとは気づかないが確かに潤っている、という程度の変化である。倶胝和尚の童子は、指を立てるだけで悟ったと伝えられる人物で、学んだ覚えもないまま悟った例として引かれる。坐禅も同じく、続けるうちに自ずと届くと結ばれる。
この章句が説くこと
薫習善知識坐禅久参悟道倶胝
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