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正法眼蔵随聞記 / 巻三

亦云く、學道の人多分云ふ、若し其のことをなさば世人是を謗せんかと、此の條太た非なり、世間の人いかに謗するとも、佛祖の行履聖教の道理にてだにもあらば依行すべし、設ひ世人擧つてほむるとも、聖教の道理ならず、祖師も行ぜざることならは依行すべからず、其れ故に世人の親疎、我れをはめ、我れを誹ればとて、彼の人の心に隨ひたりとも、我が命終の時、惡業にも引れ惡道へ落なん時、彼の人いかにも救ふべからず、亦設ひ諸人に謗せられ惡まるゝとも、佛祖の道に依行せば、眞實に我れをたすけられずんば、人の謗ずればとて道を行せざるべからず、亦かくの如く謗し讃する人、必ずしも佛祖の行を通達し、證得せるにあらず、なにとしてか佛祖の道を世の善惡を以て判すべき、然あれば世人の情には順ふべからず、只佛道に依行すべき道理ならば、一向に依行すべきなり、

新字:亦云く、学道の人多分云ふ、若し其のことをなさば世人是を謗せんかと、此の条太た非なり、世間の人いかに謗するとも、仏祖の行履聖教の道理にてだにもあらば依行すべし、設ひ世人挙つてほむるとも、聖教の道理ならず、祖師も行ぜざることならは依行すべからず、其れ故に世人の親疎、我れをはめ、我れを誹ればとて、彼の人の心に随ひたりとも、我が命終の時、悪業にも引れ悪道へ落なん時、彼の人いかにも救ふべからず、亦設ひ諸人に謗せられ悪まるゝとも、仏祖の道に依行せば、真実に我れをたすけられずんば、人の謗ずればとて道を行せざるべからず、亦かくの如く謗し讃する人、必ずしも仏祖の行を通達し、證得せるにあらず、なにとしてか仏祖の道を世の善悪を以て判すべき、然あれば世人の情には順ふべからず、只仏道に依行すべき道理ならば、一向に依行すべきなり、

書き下し

亦云く、学道の人多分云ふ、若し其のことをなさば世人是を謗せんかと、此の条太た非なり、世間の人いかに謗するとも、仏祖の行履聖教の道理にてだにもあらば依行すべし、設ひ世人挙つてほむるとも、聖教の道理ならず、祖師も行ぜざることならは依行すべからず、其れ故に世人の親疎、我れをはめ、我れを誹ればとて、彼の人の心に随ひたりとも、我が命終の時、悪業にも引れ悪道へ落なん時、彼の人いかにも救ふべからず、亦設ひ諸人に謗せられ悪まるゝとも、仏祖の道に依行せば、真実に我れをたすけられずんば、人の謗ずればとて道を行せざるべからず、亦かくの如く謗し讃する人、必ずしも仏祖の行を通達し、證得せるにあらず、なにとしてか仏祖の道を世の善悪を以て判すべき、然あれば世人の情には順ふべからず、只仏道に依行すべき道理ならば、一向に依行すべきなり、

現代語訳

また言われた。学道の人は多く言う、もしその事をすれば世の人はこれをそしるだろうか、と。この条はたいそう非である。世間の人がどれほどそしろうとも、仏祖のふるまい、聖教の道理でありさえすれば、それに依って行うべきである。たとえ世の人が挙げてほめようとも、聖教の道理でなく、祖師も行わなかったことならば、依って行ってはならない。その理由は、世の人の親しい者も疎い者も、自分をほめ自分をそしるからといって、その人の心に随ったとしても、自分の命が終わる時、悪業にも引かれて悪道へ落ちる時、その人はどうにも救えないのである。またたとえ多くの人にそしられ憎まれても、仏祖の道に依って行うならば、真実に自分が助けられるのだから、人がそしるからといって道を行わないでいてはならない。またこのようにそしり讃える人は、必ずしも仏祖の行を通達し証得しているのではない。どうして仏祖の道を、世の善悪をもって判ずべきだろうか。であるから世の人の情には順ずるべきでない。ただ仏道に依って行うべき道理ならば、

解説

評判に従うなという主張を、二つの理由で支える。一つは、ほめた人もそしった人も、いざという時に自分を救えないという結果の話。もう一つは、そしり讃える人が仏祖の道を証得していないという資格の話である。判定者に資格があるかを問う視点は、批評との付き合い方として今日も通じる。

この章句が説くこと

評判誹謗称讃依行聖教世情

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