正法眼蔵随聞記 / 巻三
爾のみならず諸ろの有道の師、先規悟道の祖を見聞するに、皆戒行を守り、威儀をとゝのへ、設ひ少善といへども是を重くす、いまだ悟道の師の善根を忽諸することを聽かず、故に學人祖道に隨はんと思はヾ必ず善根を輕しめざれ、信仰を專らにすべし、佛祖の行道は必ず衆善の聚まる處なり、諸法皆佛法なりと通達しつる上は、決定惡にして、佛祖の道に遠ざかり、善は決定善にして、佛道の緣となると知るべし、若しかくの如くならば、なんぞ三寶の境界を重くせざらんや、
新字:爾のみならず諸ろの有道の師、先規悟道の祖を見聞するに、皆戒行を守り、威儀をとゝのへ、設ひ少善といへども是を重くす、いまだ悟道の師の善根を忽諸することを聴かず、故に学人祖道に随はんと思はヾ必ず善根を軽しめざれ、信仰を専らにすべし、仏祖の行道は必ず衆善の聚まる処なり、諸法皆仏法なりと通達しつる上は、決定悪にして、仏祖の道に遠ざかり、善は決定善にして、仏道の縁となると知るべし、若しかくの如くならば、なんぞ三宝の境界を重くせざらんや、
書き下し
爾のみならず諸ろの有道の師、先規悟道の祖を見聞するに、皆戒行を守り、威儀をとゝのへ、設ひ少善といへども是を重くす、いまだ悟道の師の善根を忽諸することを聴かず、故に学人祖道に随はんと思はヾ必ず善根を軽しめざれ、信仰を専らにすべし、仏祖の行道は必ず衆善の聚まる処なり、諸法皆仏法なりと通達しつる上は、決定悪にして、仏祖の道に遠ざかり、善は決定善にして、仏道の縁となると知るべし、若しかくの如くならば、なんぞ三宝の境界を重くせざらんや、
現代語訳
それだけでなく、諸々の道ある師、先例となる悟道の祖を見聞するに、みな戒行を守り、威儀を整え、たとえ小さな善であってもこれを重んじている。いまだ悟道の師が善根を軽んじたことを聞かない。だから学人が祖師の道に随おうと思うならば、必ず善根を軽んじてはならない。信仰を専らにすべきである。仏祖の行道は、必ず多くの善が集まるところである。諸法はみな仏法であると通達した上は、悪は決まって悪であって仏祖の道から遠ざかり、善は決まって善であって仏道の縁となると知るべきである。もしこのようであるならば、どうして三宝の領域を重んじないでいられようか。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻三一日示して云く、人は必す陰徳を修すべし、陰徳を修すれば、必す冥加顕益あるなり、設ひ泥木塑像の麁悪なりとも、仏像をは敬ふべし、黄巻赤軸の荒品なりとも、経教をは帰敬すべし、破戒無慚の僧侶なりとも、僧体をは仰信すべし、内心に信心を以て敬礼すれば、必ず顕福を蒙るなり、破戒無慚の僧、疎相の仏、麁品の経なればとて、不信無礼なれば必ず罰を蒙るなり、然あるべき如来の遺法にて、人天の福分となりたる仏像経巻僧侶なり、故に帰敬すれば必ず益あり、不信なれば罪を受るなりいかに希有に浅猿くとも、三宝の境界をは帰敬すべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二吾が心に善しと思ひ、亦世人のよしと思ふこと、必らずしも善からず、然あれば人めもわすれ、吾が意をもすてゝ、仏教に随がひゆくなり、身もくるしく、心も愁ふるとも、我が身心をば一向にすてたるものなればと思ふて、苦るしくうれへつべきことなりとも、仏祖先徳の行履ならばなすべきなり、此の事はよきこと仏道にかなひたらめと思ふて、なしたく行じたくとも、もし仏祖の行履に無からん事はなすべからす、
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『正法眼蔵随聞記』巻一是を以て思ふに、仏像舎利は如来の遺像遺骨なれば、恭敬すべしと云へども、また偏に是を仰ひて得悟すべしと思はヾ、還て邪見なり、天魔毒蛇の所領となる因縁なり、仏説の功徳は定まれる事なれば、人天の福分となること生身と等しかるべし、総じて三宝の境界を恭敬供養すれば、罪滅び功徳を得、また悪趣の業をも消し、人天の果をも感ずることは実なり、是によりて法の悟りを得んと思ふは僻見なり、仏子と云は仏教に順じて直に仏位に到る為なれば、只教に随て工夫弁道すべきなり、其の教に順ずる実の行と云は、即今の叢林の宗とする只管打坐なり、是を思ふべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻一亦云く、戒行持斎を守護すべければとて、强て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり、只是れ納僧の行履、仏子の家風なれば、随ひ行ふなり、是れを能事と云へばとて、必すしも宗とする事なかれ、然あればとて破戒放逸なれと云には非ず、若し亦かの如く執せは邪見なり、外道なり、只仏家の儀式、叢林の家風なれば、随順しゆくなり、是を宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に、衆僧にも見に来らす、実の得道のためには唯坐禅工夫仏祖の相伝なり、是によりて一門の同学、五眼房故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院にて持斎をかたく守りて、戒経を終日誦せしをば、教へて捨てしめたりしなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二いまだ聞かず三国の例、財宝にとみ、愚人の帰敬をもつて道徳とすべきことを、道心者と云ふは昔しより三国みな貧にして、身をくるしくし、一切を省約して、慈あり道あるをまことに行者と云ふなり、徳のあらはるゝと云も、財宝にゆたかに、供養にほこるを云にあらす、徳の顕はるゝに三重あるべし、先つは其の人其の道を修するなりと知らるゝなり、次には其の道を慕ふ者いで来る、後には其の道をおなじく学し同じく行ずる、是を道徳のあらはるゝと云ふなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二夜話に云く、学道の人は人情を棄べきなり、人情をすつると云は、仏法に随がひ行くなり、世人多く小乗根性にて、善悪をわきまへ、是非を分ちて、是をとり非をすつるは、みな是れ小乗根性なり、只先つ世情をすてゝ仏道に入るべし、仏道に入るには、我こゝろに善悪を分ちて、よしと思ひ、悪しゝと思ふことをすてゝ、我が身よからん我が意なにとあらんと思ふ心をわすれて、善くもあれ、悪くもあれ、仏祖の言語行履に随がひゆくなり、