正法眼蔵随聞記 / 巻一
亦云く、戒行持齋を守護すべければとて、强て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり、只是れ納僧の行履、佛子の家風なれば、隨ひ行ふなり、是れを能事と云へばとて、必すしも宗とする事なかれ、然あればとて破戒放逸なれと云には非ず、若し亦かの如く執せは邪見なり、外道なり、只佛家の儀式、叢林の家風なれば、隨順しゆくなり、是を宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に、衆僧にも見に來らす、實の得道のためには唯坐禪工夫佛祖の相傳なり、是によりて一門の同學、五眼房故葉上僧正の弟子が、唐土の禪院にて持齋をかたく守りて、戒經を終日誦せしをば、教へて捨てしめたりしなり、
新字:亦云く、戒行持斎を守護すべければとて、强て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり、只是れ納僧の行履、仏子の家風なれば、随ひ行ふなり、是れを能事と云へばとて、必すしも宗とする事なかれ、然あればとて破戒放逸なれと云には非ず、若し亦かの如く執せは邪見なり、外道なり、只仏家の儀式、叢林の家風なれば、随順しゆくなり、是を宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に、衆僧にも見に来らす、実の得道のためには唯坐禅工夫仏祖の相伝なり、是によりて一門の同学、五眼房故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院にて持斎をかたく守りて、戒経を終日誦せしをば、教へて捨てしめたりしなり、
書き下し
亦云く、戒行持斎を守護すべければとて、强て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり、只是れ納僧の行履、仏子の家風なれば、随ひ行ふなり、是れを能事と云へばとて、必すしも宗とする事なかれ、然あればとて破戒放逸なれと云には非ず、若し亦かの如く執せは邪見なり、外道なり、只仏家の儀式、叢林の家風なれば、随順しゆくなり、是を宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に、衆僧にも見に来らす、実の得道のためには唯坐禅工夫仏祖の相伝なり、是によりて一門の同学、五眼房故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院にて持斎をかたく守りて、戒経を終日誦せしをば、教へて捨てしめたりしなり、
現代語訳
また言われた。戒行や持斎を守るべきだからといって、しいてそれを宗として修行に立て、これによって得道できると思うのも、やはり非である。ただこれは修行僧の日々のふるまい、仏弟子の家風であるから、それに随って行うのである。これを大事な事だと言うからといって、必ずしも宗としてはならない。そうかといって、戒を破り気ままにせよと言うのではない。もしまたそのように執着するなら邪見であり、外道である。ただ仏家の儀式、叢林の家風であるから、それに随順していくのである。これを宗とすることは、宋の寺院に身を寄せていたとき、僧たちにも見られなかった。真実の得道のためには、ただ坐禅の工夫こそが仏祖の相伝である。このことから、同門の五眼房、故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院で持斎をかたく守り、戒経を終日誦していたのを、教えて捨てさせたのである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻一師云く、しかなり、学人最とも百丈の規縄を守るべし、然あるに其の儀式は受戒護戒坐禅等なり、昼夜に戒経を誦し専ら戒を護持すと云は、古人の行履に随て只管打坐すべきなり、坐禅の時何れの戒か持たざる、何れの功徳か来らざる、古人行じおける処の行履皆深き心あり、私しの意楽を存ぜずして、衆に随ひ、古人の行履に任せて行じゆくべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、学道の最要は坐禅これ第一なり、大宋の人多く得道すること、みな坐禅のちからなり、一文不通にて無才愚癡の人も、坐禅をもつぱらすれば、その禅定の功により、多年の久学聰明の人にも勝るゝなり、しかあれば学人は祇管打坐して、他を管することなかれ、仏祖の道は只坐禅なり、他事に順ずべからず、
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『正法眼蔵随聞記』巻一奨間て云く、若し然らば何ごといかなる行か仏法に専ら好み修すべき、師師く、機に随ひ根に順ふべしと云へども、今祖席に相伝して専らする処は坐禅なり、此の行能く衆機を兼ね、上中下根ひとしく修し得べき法なり、我れ大宋天童先師の会下にして、此道理を聞て後ち、昼夜に定坐して、極熱極寒には発病しつべしとて、諸僧しばらく放下しき、
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『正法眼蔵随聞記』巻一世人多くは、我はもとより人にもよしと云はれ思はれんと思ふなり、然あれども能くも云はれ、思はれざるなり、次第に我執を捨て知識の言に随ひゆけば、精進するなり、理をば心得たるやうに云て、さはさにあれども我は其事を捨にぬと云て執し好み、修すれば、弥よ沈淪するなり、禅僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり、利鈍賢愚を論せず坐禅すれば、自然によくなるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一是を以て思ふに、仏像舎利は如来の遺像遺骨なれば、恭敬すべしと云へども、また偏に是を仰ひて得悟すべしと思はヾ、還て邪見なり、天魔毒蛇の所領となる因縁なり、仏説の功徳は定まれる事なれば、人天の福分となること生身と等しかるべし、総じて三宝の境界を恭敬供養すれば、罪滅び功徳を得、また悪趣の業をも消し、人天の果をも感ずることは実なり、是によりて法の悟りを得んと思ふは僻見なり、仏子と云は仏教に順じて直に仏位に到る為なれば、只教に随て工夫弁道すべきなり、其の教に順ずる実の行と云は、即今の叢林の宗とする只管打坐なり、是を思ふべし、
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『正法眼蔵随聞記』巻二予後に此の理を案ずるに、語録公案等を見て古人の行履をも知り、あるひは迷者のために説き聴かしめん、皆な是れ自行化他のために畢竟じて無用なり、只管打坐して大事をあきらめなば、後には一字を知らずとも、他に開示せんに用ひつくすべからず、故に彼の僧畢竟してなにの用ぞとは云ひける、是れ真実の道理なりと思ひて、其の後語録等を見ることをやめて、一向に打坐して大事を明らめ得たり、