正法眼蔵随聞記 / 巻一
是を以て思ふに、佛像舎利は如來の遺像遺骨なれば、恭敬すべしと云へども、また偏に是を仰ひて得悟すべしと思はヾ、還て邪見なり、天魔毒蛇の所領となる因緣なり、佛說の功德は定まれる事なれば、人天の福分となること生身と等しかるべし、總じて三寶の境界を恭敬供養すれば、罪滅び功德を得、また惡趣の業をも消し、人天の果をも感ずることは實なり、是によりて法の悟りを得んと思ふは僻見なり、佛子と云は佛教に順じて直に佛位に到る爲なれば、只教に隨て工夫辨道すべきなり、其の教に順ずる實の行と云は、卽今の叢林の宗とする只管打坐なり、是を思ふべし、
新字:是を以て思ふに、仏像舎利は如来の遺像遺骨なれば、恭敬すべしと云へども、また偏に是を仰ひて得悟すべしと思はヾ、還て邪見なり、天魔毒蛇の所領となる因縁なり、仏説の功徳は定まれる事なれば、人天の福分となること生身と等しかるべし、総じて三宝の境界を恭敬供養すれば、罪滅び功徳を得、また悪趣の業をも消し、人天の果をも感ずることは実なり、是によりて法の悟りを得んと思ふは僻見なり、仏子と云は仏教に順じて直に仏位に到る為なれば、只教に随て工夫弁道すべきなり、其の教に順ずる実の行と云は、即今の叢林の宗とする只管打坐なり、是を思ふべし、
書き下し
是を以て思ふに、仏像舎利は如来の遺像遺骨なれば、恭敬すべしと云へども、また偏に是を仰ひて得悟すべしと思はヾ、還て邪見なり、天魔毒蛇の所領となる因縁なり、仏説の功徳は定まれる事なれば、人天の福分となること生身と等しかるべし、総じて三宝の境界を恭敬供養すれば、罪滅び功徳を得、また悪趣の業をも消し、人天の果をも感ずることは実なり、是によりて法の悟りを得んと思ふは僻見なり、仏子と云は仏教に順じて直に仏位に到る為なれば、只教に随て工夫弁道すべきなり、其の教に順ずる実の行と云は、即今の叢林の宗とする只管打坐なり、是を思ふべし、
現代語訳
このことから考えるに、仏像や舎利は如来の遺像・遺骨であるから、うやまうべきではあるけれども、ひとえにこれを仰いで悟りを得ようと思うならば、かえって邪見であり、天魔や毒蛇の領分となる因縁である。仏の説かれた功徳は定まったものであるから、人天の福分となることは、生身の仏を供養するのと等しいはずである。総じて三宝の領域をうやまい供養すれば、罪が滅び功徳を得、また悪趣に落ちる業をも消し、人天の果報を感じ取ることは、確かに真実である。しかし、それによって法の悟りを得ようと思うのは僻んだ見方である。仏弟子というのは、仏の教えに順って直ちに仏の位に到るためのものであるから、ただ教えに随って工夫し弁道すべきである。その教えに順ずる実の行というのは、今の叢林が宗とする只管打坐である。これをよく思え。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻三一日示して云く、人は必す陰徳を修すべし、陰徳を修すれば、必す冥加顕益あるなり、設ひ泥木塑像の麁悪なりとも、仏像をは敬ふべし、黄巻赤軸の荒品なりとも、経教をは帰敬すべし、破戒無慚の僧侶なりとも、僧体をは仰信すべし、内心に信心を以て敬礼すれば、必ず顕福を蒙るなり、破戒無慚の僧、疎相の仏、麁品の経なればとて、不信無礼なれば必ず罰を蒙るなり、然あるべき如来の遺法にて、人天の福分となりたる仏像経巻僧侶なり、故に帰敬すれば必ず益あり、不信なれば罪を受るなりいかに希有に浅猿くとも、三宝の境界をは帰敬すべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一世人多くは、我はもとより人にもよしと云はれ思はれんと思ふなり、然あれども能くも云はれ、思はれざるなり、次第に我執を捨て知識の言に随ひゆけば、精進するなり、理をば心得たるやうに云て、さはさにあれども我は其事を捨にぬと云て執し好み、修すれば、弥よ沈淪するなり、禅僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり、利鈍賢愚を論せず坐禅すれば、自然によくなるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二亦云く、当世の人多く造像起塔等の事を仏法興隆と思へり、是れ亦非なり、直饒ひ高堂大観、玉をみがき金をのべたりとも、是れに依て得道の者あるべからず、只在家人の財宝を仏界に入れて、善事をなす福分なり、亦小因大果を感ずることあれども、僧徒の此の事をいとなむは仏法興隆にはあらざるなり、たとひ草菴樹下にてもあれ、法門の一句をも思量し、一と時の坐禅をも行せんこそ、誠の仏法興隆にてあらめ、
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『正法眼蔵随聞記』巻一亦云く、戒行持斎を守護すべければとて、强て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり、只是れ納僧の行履、仏子の家風なれば、随ひ行ふなり、是れを能事と云へばとて、必すしも宗とする事なかれ、然あればとて破戒放逸なれと云には非ず、若し亦かの如く執せは邪見なり、外道なり、只仏家の儀式、叢林の家風なれば、随順しゆくなり、是を宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に、衆僧にも見に来らす、実の得道のためには唯坐禅工夫仏祖の相伝なり、是によりて一門の同学、五眼房故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院にて持斎をかたく守りて、戒経を終日誦せしをば、教へて捨てしめたりしなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一師云く、しかなり、学人最とも百丈の規縄を守るべし、然あるに其の儀式は受戒護戒坐禅等なり、昼夜に戒経を誦し専ら戒を護持すと云は、古人の行履に随て只管打坐すべきなり、坐禅の時何れの戒か持たざる、何れの功徳か来らざる、古人行じおける処の行履皆深き心あり、私しの意楽を存ぜずして、衆に随ひ、古人の行履に任せて行じゆくべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二予後に此の理を案ずるに、語録公案等を見て古人の行履をも知り、あるひは迷者のために説き聴かしめん、皆な是れ自行化他のために畢竟じて無用なり、只管打坐して大事をあきらめなば、後には一字を知らずとも、他に開示せんに用ひつくすべからず、故に彼の僧畢竟してなにの用ぞとは云ひける、是れ真実の道理なりと思ひて、其の後語録等を見ることをやめて、一向に打坐して大事を明らめ得たり、