正法眼蔵随聞記 / 巻三
禪僧は善を修せず功德を用ひすと云ふて、惡行を好むは究めたるひが事なり、先規いまだ惡行を好むことをきかす、丹霞天然禪師は木佛を燒く、是れらこそ惡事と見にたれども、一段の說法の施設なり、彼の師の行狀の記を見るに、坐するに必す儀あり、立するに必ず禮あり、常に貴き賓客に向へるが如し、暫時の坐にも必ず跏趺して又手す、常住物を守ること眼睛の如くす、勤修するものあれば必ずこれを賀す、少善なれども是を重くす、常途の行狀ことに勝れたり、彼の記をとゝめて今の世までも叢林の龜鑑とするなり、
新字:禅僧は善を修せず功徳を用ひすと云ふて、悪行を好むは究めたるひが事なり、先規いまだ悪行を好むことをきかす、丹霞天然禅師は木仏を焼く、是れらこそ悪事と見にたれども、一段の説法の施設なり、彼の師の行状の記を見るに、坐するに必す儀あり、立するに必ず礼あり、常に貴き賓客に向へるが如し、暫時の坐にも必ず跏趺して又手す、常住物を守ること眼睛の如くす、勤修するものあれば必ずこれを賀す、少善なれども是を重くす、常途の行状ことに勝れたり、彼の記をとゝめて今の世までも叢林の亀鑑とするなり、
書き下し
禅僧は善を修せず功徳を用ひすと云ふて、悪行を好むは究めたるひが事なり、先規いまだ悪行を好むことをきかす、丹霞天然禅師は木仏を焼く、是れらこそ悪事と見にたれども、一段の説法の施設なり、彼の師の行状の記を見るに、坐するに必す儀あり、立するに必ず礼あり、常に貴き賓客に向へるが如し、暫時の坐にも必ず跏趺して又手す、常住物を守ること眼睛の如くす、勤修するものあれば必ずこれを賀す、少善なれども是を重くす、常途の行状ことに勝れたり、彼の記をとゝめて今の世までも叢林の亀鑑とするなり、
現代語訳
禅僧は善を修めず功徳を用いないといって、悪い行いを好むのは、きわまった僻事である。先例にはいまだ悪い行いを好むことを聞かない。丹霞天然禅師は木仏を焼いた。これらこそ悪事と見えるけれども、一段の説法の仕掛けである。あの師の行状の記を見るに、坐るには必ず作法があり、立つには必ず礼がある。常に貴い賓客に向かっているようである。しばらくの坐にも必ず結跏趺坐して叉手する。常住の物を守ることは眼球のようにする。勤めて修める者があれば必ずこれを賀する。小さな善であってもこれを重んずる。日ごろの行状はことに勝れている。あの記を留めて、今の世までも叢林の鑑とするのである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻三爾のみならず諸ろの有道の師、先規悟道の祖を見聞するに、皆戒行を守り、威儀をとゝのへ、設ひ少善といへども是を重くす、いまだ悟道の師の善根を忽諸することを聴かず、故に学人祖道に随はんと思はヾ必ず善根を軽しめざれ、信仰を専らにすべし、仏祖の行道は必ず衆善の聚まる処なり、諸法皆仏法なりと通達しつる上は、決定悪にして、仏祖の道に遠ざかり、善は決定善にして、仏道の縁となると知るべし、若しかくの如くならば、なんぞ三宝の境界を重くせざらんや、
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『正法眼蔵随聞記』巻一世人多くは、我はもとより人にもよしと云はれ思はれんと思ふなり、然あれども能くも云はれ、思はれざるなり、次第に我執を捨て知識の言に随ひゆけば、精進するなり、理をば心得たるやうに云て、さはさにあれども我は其事を捨にぬと云て執し好み、修すれば、弥よ沈淪するなり、禅僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり、利鈍賢愚を論せず坐禅すれば、自然によくなるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻二此の土の仏法者、道心者を立る人の中にも、身をすつるとて、人はいかにも見よと思ひて、ゆへ無く身をわるくふるまひ、或は亦世を執せぬとて、雨にもぬれながら行きなんどするは、内外ともに無益なるを、世間の人はすなはち此らを貴き人かな、世を執せぬなんどゝ思へるなり、中に仏制を守りて、戒律の儀をも存じ、自行化他仏制にまかせて行ずるをば、かへりて名聞利養げなるとて、人も管せざるなり、夫れが却て吾がためには仏教にも随ひ、内外の徳も成ずるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四予昔年初て建仁寺に入りし時は、僧衆随分に三業を守て、仏道の為め、利他のために、悪きことをば云はじせじと、各各志させしなり、僧正の徳の余残ありしほどは、かくの如くなりき、今時は其の儀なし、今の学者しるべし、決定して、自他の為め仏道の為に詮あるべきことならば、身をわすれても言ひ、若くは行ひもすべきなり、其の詮なきことは言行すべからず、宿老耆年の言行する時は、末臘の人は言ばをまじふべからず、是れ仏制なり、能々是れを思ふべし、身をわすれて道を思ふことは、俗猶此の心あり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一亦云く、戒行持斎を守護すべければとて、强て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり、只是れ納僧の行履、仏子の家風なれば、随ひ行ふなり、是れを能事と云へばとて、必すしも宗とする事なかれ、然あればとて破戒放逸なれと云には非ず、若し亦かの如く執せは邪見なり、外道なり、只仏家の儀式、叢林の家風なれば、随順しゆくなり、是を宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に、衆僧にも見に来らす、実の得道のためには唯坐禅工夫仏祖の相伝なり、是によりて一門の同学、五眼房故葉上僧正の弟子が、唐土の禅院にて持斎をかたく守りて、戒経を終日誦せしをば、教へて捨てしめたりしなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻三一日示して云く、人は必す陰徳を修すべし、陰徳を修すれば、必す冥加顕益あるなり、設ひ泥木塑像の麁悪なりとも、仏像をは敬ふべし、黄巻赤軸の荒品なりとも、経教をは帰敬すべし、破戒無慚の僧侶なりとも、僧体をは仰信すべし、内心に信心を以て敬礼すれば、必ず顕福を蒙るなり、破戒無慚の僧、疎相の仏、麁品の経なればとて、不信無礼なれば必ず罰を蒙るなり、然あるべき如来の遺法にて、人天の福分となりたる仏像経巻僧侶なり、故に帰敬すれば必ず益あり、不信なれば罪を受るなりいかに希有に浅猿くとも、三宝の境界をは帰敬すべきなり、