正法眼蔵随聞記 / 巻二
僧堂裡に集り居て、徒らに眠りて何の用ぞ、然あらば何ぞ出家して入叢林するや、見ずや世間の帝王官人何人か身をたやすくする、君は王道を治め、臣は忠節を盡し、乃至庶民は田を開き鍬を取るまでも、何人かたやすくして世を過す、是れをのがれて叢林に入て、空く時光を過して畢竟して何の用ぞ、生死事大なり、無常迅速なりと、教家も禪家も同く勸む、今夕明旦如何なる死をか受け、如何なる病をかうけん、且く存するほど佛法を行せず、睡り臥して空く時を過すこと最も愚なり、
新字:僧堂裡に集り居て、徒らに眠りて何の用ぞ、然あらば何ぞ出家して入叢林するや、見ずや世間の帝王官人何人か身をたやすくする、君は王道を治め、臣は忠節を尽し、乃至庶民は田を開き鍬を取るまでも、何人かたやすくして世を過す、是れをのがれて叢林に入て、空く時光を過して畢竟して何の用ぞ、生死事大なり、無常迅速なりと、教家も禅家も同く勧む、今夕明旦如何なる死をか受け、如何なる病をかうけん、且く存するほど仏法を行せず、睡り臥して空く時を過すこと最も愚なり、
書き下し
僧堂裡に集り居て、徒らに眠りて何の用ぞ、然あらば何ぞ出家して入叢林するや、見ずや世間の帝王官人何人か身をたやすくする、君は王道を治め、臣は忠節を尽し、乃至庶民は田を開き鍬を取るまでも、何人かたやすくして世を過す、是れをのがれて叢林に入て、空く時光を過して畢竟して何の用ぞ、生死事大なり、無常迅速なりと、教家も禅家も同く勧む、今夕明旦如何なる死をか受け、如何なる病をかうけん、且く存するほど仏法を行せず、睡り臥して空く時を過すこと最も愚なり、
現代語訳
僧堂の中に集まっていて、いたずらに眠って何の用があるのか。そうであるなら、なぜ出家して叢林に入ったのか。見ないのか、世間の帝王や官人で、誰が身を楽にしているだろうか。君主は王道を治め、臣は忠節を尽くし、さらに庶民は田を開き鍬を取るまでも、誰が楽をして世を過ごしているだろうか。それを逃れて叢林に入って、空しく時を過ごして、つまるところ何の用があるのか。生死は大事である、無常は迅速であると、教家も禅家も同じく勧めている。今夕、明朝、いかなる死を受け、いかなる病を受けるか分からない。しばらく生きている間に仏法を行わず、眠り臥して空しく時を過ごすのは、もっとも愚かである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『正法眼蔵随聞記』巻二此の道理真実なればこそ、仏も是れを衆生の為に説きたまひ、祖師の普説法語にも此の道理のみを説る、今の上堂請益等にも、無常迅速生死事大と云ふなり、返々も此の道理を心にわすれずして、只今日今時ばかりと思ふて、時光をうしなはず、学道に心をいるべきなり、其の後は真実にやすきなり、性の上下と根の利鈍は、全く論ずべからざるなり、
-
『正法眼蔵随聞記』巻二亦此の志しをおごす事は、切に世間の無常を思ふべきなり、此の事は亦只仮令の観法なんどにすべきことにあらず、亦無きことをつくりて思ふべきことにもあらず、真実に眼前の道理なり、人のをしへ、聖教の文、證道の理を待つべからず、朝に生じて夕べに死し、昨日みし人今日はなきこと、眼に遮ぎり耳にちかし、是は他のうへにて見聞することなり、我が身にひきあてゝ道理を思ふに、たとひ七旬八旬に命を期すべくとも、終に死ぬべき道理に依て死す、其の間の憂へ楽み、思愛怨敵等を思ひとげば、いかにてもすごしてん、只仏道を信じて涅槃の真楽を求むべし、
-
『正法眼蔵随聞記』巻二況や年長大なる人、半ばに過ぬる人は、余年幾く計りなれば学道ゆるくすへきや、此の道理も猶のびたる事なり、真宗には今日今時こそ、かくのごとく世間の事をも仏道の事をも思へ、今夜明日よりいかなる重病をも受て、東西を弁へぬ重苦の身となり、亦いかなる鬼神の怨害をもうけて頓死をもし、いかなる賊難にもあひ怨敵も出来て、殺害奪命せらるゝこともやあらん、実に不定なり、然あれば是れほどにあだなる世に、極て不定なる死期をいつまで命ちながらふべきとて、種々の活計を案じ、剰さへ他人のために悪をたくみに思ふて、いたづらに時光を過すこと、極めておろそかなる事なり、
-
『正法眼蔵随聞記』巻二夜話に云く、学人は必ずしぬべきことを思ふべき道理は勿論なり、たとひ其のことをば思はずとも、暫く先づ光陰を徒らに過さじと思ひて、無用のことをなして、徒らに時を過さず、詮あることをなして、時を過すべきなり、其のなすべきことの中にも、亦一切のこといづれか大切なると云ふに、仏祖の行履の外は無用なりと知るべし、
-
『正法眼蔵随聞記』巻二然あれば仏法の学人も、世を離れ家を出ればとて、徒らに身を安すんぜんと思ふこと片時もあるべからず、初めは利あるに似たれども、後には大いに害あるなり、出家の作法に順て全く其の職を治め、其業を修すべきなり、世間の治世は先規有道をかんがへ求れども、先聖先達のたしかに相伝したる例なければ、自ら其の時の例に随ふこともあれども、仏子はたしかなる先規教文顕然なり、亦相承伝来の知識現在せり、我れに思量あり、四威儀の中において一一に先規を思ひ、先達に随ひ修行せんに、なじかは道を得ざるべき、俗は天意に合はんと思ひ、衲子は仏意に合はんと思ふ、修業ひとしくして、得果すぐれたれば、一得永得ならん、かくの如く大安業の為めに、一世幻化の此身を苦しめて仏意に随んは、唯行者の心にあるべし、
-
『正法眼蔵随聞記』巻一示して云く無常迅速なり、生死事大なり、且く存命の際た、業を修し学を好ます、只仏道を行じ仏法を学すべきなり、文筆詩歌等其の詮なき事なれば、捨べき道理なり、仏法を学し、仏道を修するにも猶を多般を兼学すべからず、況や教家の顕密の聖教、一向にさしおくべきなり、仏祖の言語すら多般を好み学すべからず、一事を専らにせんすら、鈍根劣器の者はかなふべからす、況や多事を兼て、心操をとゝのへざらんは不可なり