正法眼蔵随聞記 / 巻二
南嶽の磚を磨して鏡となせしも、馬祖の作佛を求めしを戒めたり、坐禪を制するにはあらざるなり、坐はすなはち佛行なり、坐はすなはち、不爲なり、是れ便ち自巳の正體なり、此の外別に佛法の求むべき無きなり、
新字:南嶽の磚を磨して鏡となせしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり、坐禅を制するにはあらざるなり、坐はすなはち仏行なり、坐はすなはち、不為なり、是れ便ち自巳の正体なり、此の外別に仏法の求むべき無きなり、
書き下し
南嶽の磚を磨して鏡となせしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり、坐禅を制するにはあらざるなり、坐はすなはち仏行なり、坐はすなはち、不為なり、是れ便ち自巳の正体なり、此の外別に仏法の求むべき無きなり、
現代語訳
南嶽が磚を磨いて鏡としようとしたのも、馬祖が仏になることを求めていたのを戒めたのである。坐禅を制したのではない。坐はすなわち仏行である。坐はすなわち、なさざることである。これがすなわち自己の正体である。この外に別に仏法として求めるべきものはないのである。
解説
磚を磨いて鏡にはならないと示した南嶽の故事は、坐禅を無意味だとする根拠に使われることがある。道元はそれを、坐を否定したのではなく作仏を求める心を戒めたのだと読む。坐は仏行であり、同時に不為であるという二重の言い方で、目的を持たずになされる行として坐が定義されている。
この章句が説くこと
坐禅仏行不為自己南嶽馬祖
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