正法眼蔵随聞記 / 巻二
忌日の、追善中陰の作善なんどは、皆在家に用ふる所ろなり、衲子は父母の深きことをば實の如くしるべし、餘の一切も亦かくの如しと知るべし、別して一日を占て、ことに善を修し、別して一人を分て廻向するは佛意にあらざるか、戒經の父母兄弟死亡之日の文は、且く在家に蒙むらしむるか、大宋叢林の衆僧、師匠の忌日には、其儀式あれども、父母の忌日は是を修したりとも見へざるなり、
新字:忌日の、追善中陰の作善なんどは、皆在家に用ふる所ろなり、衲子は父母の深きことをば実の如くしるべし、余の一切も亦かくの如しと知るべし、別して一日を占て、ことに善を修し、別して一人を分て廻向するは仏意にあらざるか、戒経の父母兄弟死亡之日の文は、且く在家に蒙むらしむるか、大宋叢林の衆僧、師匠の忌日には、其儀式あれども、父母の忌日は是を修したりとも見へざるなり、
書き下し
忌日の、追善中陰の作善なんどは、皆在家に用ふる所ろなり、衲子は父母の深きことをば実の如くしるべし、余の一切も亦かくの如しと知るべし、別して一日を占て、ことに善を修し、別して一人を分て廻向するは仏意にあらざるか、戒経の父母兄弟死亡之日の文は、且く在家に蒙むらしむるか、大宋叢林の衆僧、師匠の忌日には、其儀式あれども、父母の忌日は是を修したりとも見へざるなり、
現代語訳
忌日の追善、中陰の作善などは、みな在家に用いるところである。修行僧は父母の恩の深いことを、事実のとおりに知るべきである。他の一切もまたこのようであると知るべきである。とりわけ一日を定めて、特別に善を修め、特別に一人を分けて回向するのは、仏の御意ではないのではないか。戒経にある父母兄弟死亡の日という文は、しばらく在家に当てはめるものであろうか。大宋の叢林の僧たちは、師匠の忌日にはその儀式があるけれども、父母の忌日はこれを修めたとも見えないのである。
解説
前条の原則を、具体的な行事に当てはめている。追善や中陰は在家の作法だとし、日を定めて一人のために回向することを疑う。最後に、宋の叢林では師匠の忌日は営むが父母の忌日は見なかったという実見を添える。教理ではなく現地で見た事実を根拠に置くのが、この書の道元らしい確かめ方である。
この章句が説くこと
忌日追善回向在家叢林師匠
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