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葉隠 / 聞書第一

名人も人、我も人、何しに劣るべきかと打向へば道に入るなり。一度打向へば、最早其の道に入りたるなり。名人も人なり、我も人なり、何しに劣るべきかと思ひて、一度志すところが即ち聖人なり。後に修行して聖人に成り給ふにはあらず。十有五にして學に志すとは、即ち聖人なり。初發心時辨成正覺ともこれあるなり。

新字:名人も人、我も人、何しに劣るべきかと打向へば道に入るなり。一度打向へば、最早其の道に入りたるなり。名人も人なり、我も人なり、何しに劣るべきかと思ひて、一度志すところが即ち聖人なり。後に修行して聖人に成り給ふにはあらず。十有五にして學に志すとは、即ち聖人なり。初発心時辨成正覺ともこれあるなり。

書き下し

名人も人、我も人、何(なに)しに劣るべきかと打向(うちむか)へば道に入るなり。一度打向へば、最早(もはや)其の道に入りたるなり。名人も人なり、我も人なり、何しに劣るべきかと思ひて、一度志すところが即ち聖人なり。後(のち)に修行して聖人に成り給ふにはあらず。十有五にして学に志すとは、即ち聖人なり。初発心時(しょほっしんじ)辨成正覚(べんじょうしょうがく)ともこれあるなり。

現代語訳

名人も同じ人間、自分も同じ人間だ、どうして劣ることがあろうかと、正面から立ち向かえば、その道に入ることができる。一度立ち向かった時点で、もうその道に踏み入っているのだ。名人も人、自分も人、なぜ劣ろうかと思い定めて、一度志したその瞬間が、すでに聖人なのである。後になって修行を重ねてから聖人になるのではない。「十五にして学に志す」というのも、志したその時が聖人なのだ。「初めて発心した時に、すでに正しい覚りが成る」という言葉もある。

解説

劣等感を断ち切って一歩踏み出す勇気を説く一節です。名人も自分も同じ人間だと腹をくくって正面から向き合えば、その瞬間にもう道に入っている、という力強い励ましです。注目すべきは、聖人とは長い修行の果てに到達する遠い目標ではなく、「志したその瞬間」に立ち上がるものだと捉える点です。孔子の「十有五にして学に志す」や禅の「初発心の時に正覚を成ず」を引き、始めた時こそがすべての本質だと言い切ります。現代でも、才能や実績で気後れして始められない人は多いもの。だが第一歩を踏み出した時点で、すでに道の上に立っている、というこの見方は、挑戦をためらう背中を押してくれるでしょう。

この章句が説くこと

第一歩劣等感を断つ初心名人と自分発心

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