正法眼蔵随聞記 / 巻二
示して云く、然あり、有智高才を用ひず、靈利聰明によらぬはまことの學道なり、あやまりて盲聾癡人のごとくになれとす、ゝむるは非なり、學道は是れ全く多聞高才を用ひぬ故に下根劣器と嫌ふべからず、誠の學道はやすかるべきなり、然あれども大宋國の叢林にも、一師の會下の數百千人の中に、まことの得道得法の人はわづかに一人二人なり、然あれば故實用心もあるべきなり、
新字:示して云く、然あり、有智高才を用ひず、霊利聰明によらぬはまことの学道なり、あやまりて盲聾癡人のごとくになれとす、ゝむるは非なり、学道は是れ全く多聞高才を用ひぬ故に下根劣器と嫌ふべからず、誠の学道はやすかるべきなり、然あれども大宋国の叢林にも、一師の会下の数百千人の中に、まことの得道得法の人はわづかに一人二人なり、然あれば故実用心もあるべきなり、
書き下し
示して云く、然あり、有智高才を用ひず、霊利聰明によらぬはまことの学道なり、あやまりて盲聾癡人のごとくになれとす、ゝむるは非なり、学道は是れ全く多聞高才を用ひぬ故に下根劣器と嫌ふべからず、誠の学道はやすかるべきなり、然あれども大宋国の叢林にも、一師の会下の数百千人の中に、まことの得道得法の人はわづかに一人二人なり、然あれば故実用心もあるべきなり、
現代語訳
示して言われた。そのとおりである。智あり才が高いことを用いず、利発や聡明によらないのが、まことの学道である。あやまって、盲や聾や愚か者のようになれと勧めるのは非である。学道はまったく多聞や高才を用いないゆえに、下根劣器と嫌ってはならない。まことの学道はたやすいはずである。しかしながら、大宋国の叢林でも、一人の師の会下の数百千人の中で、まことに得道し得法した人はわずかに一人二人である。であるから、故実や心得もあるはずである。
解説
才を用いないという言葉を、才を捨てて愚かになれという意味に取り違えるなと釘を刺す。そのうえで、たやすいはずだと言いながら、実際には数百千人に一、二人しか得ていないという事実を並べる。たやすさと稀少さの食い違いこそが、心得のある証拠だという運びで、問いに正面から向き合っている。
この章句が説くこと
学道才下根得道故実叢林
関連する章句
-
『正法眼蔵随聞記』巻二一日学人問て云く、某甲なを学道を心にかけて年月を経るといへども、いまだ省悟の分あらず、古人多く道は聰明霊利に依らず、有智明敏を用ひずと云ふ、然あれば我が身下根劣器なればとて、卑下すべきにもあらずときこへたり、若し故実用心を存すべき様ありや、如何ん、
-
『正法眼蔵随聞記』巻五答て云く、無智の有道心は終に退すること多し、智慧ある人は無道心なれども、終には道心を起すなり、当世も現證是れ多し、然あれば先づ道心の有無を云はず、学道を勤むべきなり、道を学せば只た貧なるべし、内外の書籍を見るに、貧ふして居所もなく、或は滄浪の水に浮び、或は首陽の山にかくれ、或は樹下露地に端坐し、或は塚間深山に卓菴する人もあり、亦富貴にして財多く、朱漆をぬり、金玉をみがきて、宮殿等を造るもあり、倶に典籍にのせたり、然といへども、後代をすゝむるには、皆貧にして財なきを以て本とす、訓りて罪業を誠むるには、富て財多きを驕奢の者と云て誹れるなり、
-
『正法眼蔵随聞記』巻五世間の人も他にまじはらず、己れが家ばかりにて生長したる人は、心のまゝにふるまひ、己が心を先として、人目をしらす、人の心を兼ざる人は、必ずしもあしきなり、学道の用心も亦かくのことし、衆にまじはり師に順して、我見を立せす、心をあらためゆけば、たやすく道者となるなり、学道は先づすべからく貧を学すべし、名をすて利をすて、一切諂らふことなく、万事なげすつれば必ずよき道人となるなり、
-
『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、帝道の故実の諺に云く、虚襟に非ざれば忠言をいれずと、云心は、己見を存ぜずして、忠臣の言ばに随て、道理にまかせて帝道を行はるゝなり、衲子の学道は用心故実も亦かくのごとくなるべし、わづかも己見を存せば、師の言ば耳に入ざるなり、師の言ば耳に入ざれば、師の法を得ざるなり、只法門の異見を忘るゝのみにあらず、世事及び飢寒等を忘れて、一向に身心を清めて聞く時、親く聞得るなり、かくのごとく聞く時は、道理も不審も明らめらるゝなり、真実の得道と云ふは、従来の身心を放下して、只直下に他に随ひゆけば、即ちまことの道人となるなり、是れ第一の故実なり
-
『正法眼蔵随聞記』巻五一日示して云く、世間の人多く云ふ、某し師の言ばを聞けども我が心に叶はずと、此の言は非なり、知らず其のこゝろいかん、若しは聖教等の道理の、我が心に違背して非なりと思ふか、これは一向の凡愚なり、亦は師の云へる言が我が心に契はざるか、若し然あらばなんぞはじめより師に問ふや、亦日来の情見を以て云か、もししかあらば是れは無始よりこのかたの妄念なり、学道の用心と云ふは、我が心にたがへども、師の言は聖教の言理ならば、全く其に随て本の我見をすてゝあらためゆくべし、此の心が学道第一の故実なり、
-
『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、或る人の云く、我は病者なり、非器なり、学道には堪へず、法門の最要を聞て、独住隠居して身をやしなひ、病をたすけて、一生を終へんと思ふと、これは太だ非なり、先聖必ずしも金骨にあらず、古人豈に咸く皆上器ならんや、滅後を思へばいくばくならず、在世を考るに人々みな俊なるにあらず、善人もあり、悪人もあり、比丘衆の中に不可思議の悪行なるもあり、最下品の器量もあり、しかあれども卑下しやめりなんと称して道心をおこさず、非器なりと云て学道せざるはなし、今生に若し学道修行せずんば、何れの生にか器量の人となり、無病の者と成て学道せんや、只身命を顧りみず、発心修行するこそ、学道の最要なれ、