正法眼蔵随聞記 / 巻二
一日學人問て云く、某甲なを學道を心にかけて年月を經るといへども、いまだ省悟の分あらず、古人多く道は聰明靈利に依らず、有智明敏を用ひずと云ふ、然あれば我が身下根劣器なればとて、卑下すべきにもあらずときこへたり、若し故實用心を存すべき樣ありや、如何ん、
新字:一日学人問て云く、某甲なを学道を心にかけて年月を経るといへども、いまだ省悟の分あらず、古人多く道は聰明霊利に依らず、有智明敏を用ひずと云ふ、然あれば我が身下根劣器なればとて、卑下すべきにもあらずときこへたり、若し故実用心を存すべき様ありや、如何ん、
書き下し
一日学人問て云く、某甲なを学道を心にかけて年月を経るといへども、いまだ省悟の分あらず、古人多く道は聰明霊利に依らず、有智明敏を用ひずと云ふ、然あれば我が身下根劣器なればとて、卑下すべきにもあらずときこへたり、若し故実用心を存すべき様ありや、如何ん、
現代語訳
ある日、学人が問うて言った。わたくしはなお学道を心にかけて年月を経ますけれども、いまだ省み悟る分がありません。古人は多く、道は聡明さや利発さによらず、智あり明敏であることを用いないと言います。であるから、自分の身が下根劣器だからといって卑下すべきでもないと聞こえています。もし故実や心得として持つべき様があるでしょうか、いかがですか。
解説
才によらないと言われても悟れない、という切実な問いである。才の有無を理由にできないのだから、では何が足りないのかを尋ねている。学び続けてなお手応えのない者の問いとして、この巻でもっとも実感のこもった問いで、これに対する長い答えが以下に続く。
この章句が説くこと
学道下根才卑下故実用心
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